2024年3月25日、第18回目となる藝文学研究会が東洋文化研究所にて開催された。小川隆氏(駒澤大学)に、「お茶と禅:己れと向きあい他者と交わる」と題する発表を行っていただいた。
江戸時代の『南方録』をはじめとし、禅の心とお茶の道の繋がりはさまざまな形で想起されてきた。しかしながら、その関係は必ずしも自明ではない。たとえば、「一休→珠光→紹鷗→利休」という系譜に沿って「茶禅一味」の「茶の湯」が形成されていったという伝承が知られているが、それが後世の虚構であることがすでに解明されている。
小川氏の発表は、禅とお茶の系譜を紡ぎ直し、その意味を改めて問うものであった。具体的には、⑴「伝灯」の系譜、⑵「清規」、⑶「問答」と「語録」という3点からその関係が分析された。禅とは瞑想を意味するサンスクリット語「ディヤーナ」に由来する名であり、「以心伝心」「教外別伝」の形で仏の心を代々伝えてきたと主張する。宋代以降、禅は日本に渡り、それをめぐる解釈や実践が複数の系譜にそって増幅してきた。印象深かったのは、禅宗の起居動作に一々法があるとされることである。「神通并妙用 運水及搬柴(神通并びに妙用 水を運び及た柴を搬ぶ)」(『碧巌録』42 本則評唱)で表されているように、禅では修行と生活が分かれていない。日常生活の隅々に仏道が現れており、日々のありふれた出来事から悟りの道が開いていく。このような禅のあり方に照射される世界のなかで、茶道の理想が芽生えていると考えられる。
ディスカッションのなかでは、他の宗教とお茶の関係、規範と自由の矛盾や他者との関わりなどといったテーマが取り上げられている。儒家では、先賢の行いへの解釈から生まれた諸々の決まりを身につけることが入り口となり、最終的には自ずと振る舞えるようになることが望ましいとされている。それに対して、禅の意味や良いとされる方向を一義的に決め付けることができない。悟りの自由と規範・因果律の拘束の間に、修行の道があるのである。さらに、悟りは個人に完結しないものであり、悟った人がその道を他者に伝える———まさに研究会のタイトルにあったように、「己れと向きあい他者と交わる」こと自体が禅の基礎となっていると小川氏は指摘された。来年度の藝文学研究会は、こうした禅とお茶で示された議論を引き継ぎながら、多様な発見を育む場になっていくことを心より楽しみにしている。
報告者:汪牧耘(EAA特任研究員)