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2023.11.17

【報告】第6回「開発と文学」研究会

20231115日、第6回となる「開発と文学」研究会を開催した。今回は、金景彩氏(慶應義塾大学)をお招きし、本研究会の主宰者である汪牧耘氏(EAA特任研究員)と、報告者(崎濱紗奈:EAA特任助教)の3名で座談会を行った。昨年度より活動を続けてきた本研究会は、「開発」と「文学」という異なる領域の“出会い直し”を企図している。今年度は610日にラウンドテーブル「開発と文学」(於国際開発学会)を開いた。今回の座談会は、その際の議論をさらに深めることを目的として開催されたものである。今後、こうした座談会を複数回開催し、最終的にそこで得られた成果を書籍化することを計画している。

まず汪氏より、「開発と文学」というテーマで思考することの意義について、今一度問題提起がなされた。国家や民間企業、あるいはNGOなど、アクターの性質はその時々によって異なるものの、「開発」という事態は通常、報告書や論文といった形式において記録・記述される。それは、目指すべき理想の設定→解決すべき課題の発見→解決方法の提示、及びそれが実践された際の限界、といった要素によって構成される。

だが、実際に現場で生じていることには、こうした形式においては語り尽くすことができない事象が往々にして含まれている。例えば、「開発」という事態を経験した人々——そこには「開発」する側とされる側という分かりやすい構図においては捉えられない複雑に入り組んだ関係性が含まれている——が抱く感情が挙げられる。あるいは、そもそも目指すべき理想はどのような思想・哲学に基づいて設定されているのかという根本的な問いは、先述した形式においては正面から検討されることはない。これらの語られない領域を思考し、表現するための方法として「文学」にアプローチしてみたい、というのが汪氏の意図である。

こうした問題意識に基づき、汪氏は「開発」と「文学」が「現実/理想」「理性/感情」「有用/無用」という二項対立的なバイアスに基づいて捉えられてしまう現状を指摘し、そうした構図に捉われずに「開発」と「文学」を同時に思考する方法を模索すべきである、と提言した。

しかし、そうはいっても「開発」と「文学」という異質な方法論を突き合わせた時に、どうしてもすれ違いが生じることも、また確かである。金氏は、「開発」という事態そのものと、それについて検討する「開発学」とを峻別・整理して考える必要性を指摘した。また金氏は、「開発」と「文学」とは、そもそも位相の違うものであるということに着目すべきではないかと提案したが、これは今後この企画を進めていく上での重要な指標となるだろう。

「開発」とは、ある目的を達成するための概念的な道具として機能しているものであるのに対し、「文学」とは、あらゆる議論を可能にする場そのものであるという特徴を帯びている。また、国民国家の創設、資本主義の展開、帝国主義/植民地主義の波及といった事態に象徴される「近代」という動態に深く規定されながらも、それを根本から批判的に問い直すという作業を積み重ねてきた「文学」に対し、「開発」は、「文学」同様「近代」に深く規定されながらも、めまぐるしく変化する現状を追いかけ続け、なおかつ有効な提言を行わなければならないという宿命を背負っているがゆえに、「近代」そのものを哲学的に問い直すという作業はほとんど伴われない。言い換えれば、すでに起こったことを事後的に精緻に思考することに長けている「文学」(あるいは思想・哲学をここに含めてもよいだろう)と、現在進行形で生じている出来事に伴走しなければならない「開発」(こうした事態について、汪氏は「車を運転しながら車を修理するようなもの」という絶妙な表現を用いて捉えた)とでは、異なる時間性を生きているという点で、両者が出会うということには決定的な困難が常につきまとう。

「開発と文学」というテーマを深め、開発学と文学双方にとって批判的な——双方を根底から組み替え得るような——問いを発見するためには、上記のような両者のすれ違いをまずは凝視する必要がある。すれ違いを踏まえた上で共同作業を進めるための具体的な方法として、ラウンドテーブルに登壇したメンバー皆で読む文学作品をリストアップすることが提案された。同じテクストであっても、開発学に関わる者と、文学(や思想・哲学)に関わる者とでは、おそらく読解の態度が大きくことなることが予想される。次回の研究会では、そうした試みに挑戦してみたい。

 

報告者:崎濱紗奈(EAA特任助教)