如何に先住民族と共生するのか——2022年6月17日に主催された講演「先住民族との共生」において、張政遠氏(総合文化研究科)はその問いを我々に投げかけた。今日、「多文化共生」はよく耳にするスローガンだが、その重要性を強調する必要はもはやないだろう。だが、「多文化共生」を実現するツールが常に罠を伴うことは、これまで十分に注目されてきたとはいえない。
現実社会で先住民族の文化と共生を試みれば、複雑な問題に直面する。張氏はその事例として、台湾の先住民族の同化政策、メキシコの国立人類学博物館、日本の「民族共生象徴空間」(通称、ウポポイ)などを取り上げ、次の問いを提示した。つまり、祝祭化、博物館化という努力/操作は文化保存の視座から見れば最良の共生政策かもしれないが、それだけで本当に十分なのか、と?
例えば、日本の「民族共生象徴空間」はアイヌ文化を復興・発展させることを目的に設置された施設であるが、かえって先住権、民族自決権が侵されたという先住民族の反発を招いた。如何に「他者」の主体性とアイデンティティーを保った上で先住民族の文化の復興、権利の回復を実現するのかということこそが共生問題の核心である。日本のアイヌ文化政策から見れば、学術、観光と展示のみを手段として多民族共生を促せば促すほど、希望に反する結果につながりうる。張氏は、いかに伝統文化を保存するのか、あるいはそれを保存する必要があるのかというより深い課題——真の民族共生はなんなのか——の批判的再検討を我々に迫る。
真の共生は、「象徴空間」などという箱物を建設するだけで実現できるものではなく、むしろ現実社会においてこそ作り出さなければならないものである。張氏は先住民の聖地を観光地化せず、聖域のままで守り抜くことこそが、「共生」の本来のあり方だと主張する。その根底には、文化とはなんなのかという本質論の問題もあると思われる。というのも、文化は静止的なものではなく、流動しながら、人の営みと関わりながらでしか生きていないからである。
報告:滕束君(EAAリサーチ・アシスタント)
リアクション・ペーパーからの抜粋
(1)今回の講義の中で川村カ子ト記念館の川村館長が、日本語でなぜアイヌ語の授業がないのかということを熱弁されていたという話を聞いてはっとするものがあった。確かに、外国語を学ぶ前に日本に住む人々の伝統的な言葉を学ぶことのほうが先決なのでないかと思う。実用性を考えれば英語や中国語などの外国語を学ぶほうが良いのかもしれないが、伝統的な文化を学びその存続を守るほうが長期的にはよほど大事であると気づいた。特に言語は文化の非常に大きな部分を占めており、言語を失うとその文化を継承できない。この問題を解決するには大学で伝統言語の講義を開口するか、テレビの外国語講座などに加えて伝統言語のコンテンツもつくるか、あるいはSNSなどで伝統言語を扱うようなエンタメをつくるかなどの方法が考えられる。(理科一類 2年)(2)共生というのは、多元主義に基づくものであるので、同化政策でできた単一の価値観での人間の統合など共生とは言えない。
文化間の共生と図りつつ、個人としての独自な在り方を無視しないためには、それぞれの文化が持つ輪をつなげ、個人が輪のつながりを移動していけるとする(つまり、自分が属する文化の制度が嫌なら、その文化とつながっている別の文化の中で生きられるし、元の文化から完全に切り離されることもない)、大衆の心情が必要である。その心情の情勢には、立法というよりは、哲学的考察の普及が欠かせないだろう(文一的なものでなく文三的なものに価値があると考えることが多くなった今日この頃だ)。(文科一類)