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2022.04.27

【報告】2022 Sセメスター 第3回学術フロンティア講義

2022年4月22日(金)対面の形式で、2022年Sセメスター学術フロンティア講義「30年後の世界へ——『共生』を問う」の第三回が行われた。今回は、美学と表象文化論を専門とする星野太氏(総合文化研究科)を講師に迎え、講演のタイトルは「いかにして共に生きるか——『食べること』と『リズム』について」であった。

これまで「崇高(sublime)」の概念や、「準−人間」、「寄食者(parasite)」などの対象を探求してきた星野氏は、今回の講義では、ロラン・バルトが晩年に取り組んだテーマの一つ「いかにして共に生きるか」に注目した。この問いを、バルトは個人の自由を阻害しないような、ごく限られた集団による共同生活を通じて考え、「イディオリトミー(idiorrythmie)」という言葉を導入した。

 

星野氏はフランスの作家ジャック・ラカリエールの『ギリシアの夏』(1976)においてギリシアのアトス山に存在するものとして描かれる修道士たちの理想的な生活形態を取り上げながら、「イディオリトミー」の意味を解説した。そこでは、いっさいの行動が共同で行われる共同体としての修道院がある一方、イディオリトミックと呼ばれる、各々が個人に固有のリズムで生活するというタイプの修道院もあると言う。つまり、イディオリトミーとは自分の身体をいかに使うのか、いかにして他の人と共に行動するのかを自由に選択できるという「理想的なリズム」のことである。それは日本語ではややマイナスの意味で使われる「マイペース」という言葉を思い出させるが、自分向けの「マイペース」と異なり、イディオリトミーには共同生活の意図が見出せ、一種の折衷案とも言えよう。

 

ほかの人々と空間を共にする問題の日常版は、孤食と共食の話題である。現代の日本社会では『孤独のグルメ』が一種の新しい気風として流行ってきたが、フランス革命前後パリのレストラン文化を記したブリア=サヴァランの『味覚の生理学(邦訳:『美味礼讃』)』においては、孤食は「利己主義を助長」するものとして露骨に批判されたという。飲食文化と社会秩序の関係についての問題提起は非常に興味深い話であった。最後に、星野氏はこの本の背後に隠された家族・異性愛・人間中心主義を指摘し、孤立とも団結とも異なる「つかの間の共同体」などを、ほかの人々と空間を共にする形態として紹介した。

 

報告:滕束君(EAAリサーチ・アシスタント)

 

リアクション・ペーパーからの抜粋
(1)今回の講義では,共生という言葉の持つ強迫性について考え,非常に興味深く受講した.特に,イディオミトリーに関する議論は,自らのリズムを維持しながら全体のリズムを構築するという,一般的な共生論においては忘れ去られがちな側面について学ぶことができた.…今回の講義でも述べられたように,共生が多様性として片づけられない「実体」を持った存在として認識していく営みが欠かせないのだと感じる.多様性と人が言うとき,具体的にどのような多様性があるのかを聞くと答えられない人が多いように思える.しかし,身の回りに目を向ければ,自分たちとは異なった存在への出会いを多く経験していることに気づくであろう.他者を包括的に認めること,それが文字通り多様性にあふれた共生の場を生み出すというように感じる.自分たちでない人々と,必ずしもすべてを受け入れなくとも,それぞれのリズムを維持しながらともに食卓を囲めるとき,排除のない真の共生を実現することになると考えている.(理科一類2年)

(2)共住的な共同体と孤立との2つの極の間に「イディオリトミック」な共同体があるとして、それが理想的だとされる根拠があまり分からなかった。(確かに個人的に・直感的には、ずっと他人とべったりくっついているしんどさもないし、自由の度合いが大きいし、さびしくなることもないので、快適だろうなとは想像できるが。)
もともと「共生」「家族中心主義」が礼賛される傾向があったとして、現在特に若者を中心に孤立的(≒効率的・合理的?)であることを望む傾向が増えているのだとしたら(フードデリバリー、在宅ワークなど)、その中庸にある「つかのまの共同体」はただの良いとこどりでしかないのではないか。
でも、それが万人にとって快適な世界だということか?あるべき共生の姿ってなんだろう。お互いにとっての快適さに流されてゆくこと?「イディオリトミック」な共同体は、人間が快適さに流された帰結なのではないかと思った。快適さを追い求めた結果がハッピーエンドであるという事例はあまり思いつかないので、共生のあるべき姿の方向性として正しい可能性は低いのでは、と思ってしまった。(教養学部3年)