7月12日、第13回学術フロンティア講義は北京大学・ニューヨーク大学教授の張旭東氏を迎えて、「翻訳不可能を翻訳する——『コンタクト・ゾーン』と人文科学におけるフロンティア」というタイトルの講義が行われた。
張旭東氏はまず「コンタクト・ゾーン」という概念に触れた。異種の文化や言語が接触すると、この空間は言語や思考が混交する領域になる。これに対して二つの仮定(assumption)が成り立つ。一つは「コンタクト・ゾーン」において、調和的、理性的コミュニケーションと相互理解が可能になることである。これは理想的であるが、しかしこれが成り立つことはきわめて困難であると張旭東氏は指摘した。実際は、接触することそれ自体が、対立、衝突ないし戦争をもたらすことがしばしばある。その場合「コンタクト・ゾーン」は「フロンティア(辺境地域)」になる。これについて張氏は、アメリカの歴史学者フレデリック・ターナー(Frederick. J. Turner)が1983年に発表した論文「アメリカ史におけるフロンティアの意義」(The significance of the Frontier in American History. 日本語訳:渡辺真治・西崎京子訳『フレデリック・J・ターナー』収載、アメリカ古典文庫9、研究社、1975年)を通じて説明した。ターナーに言わせれば、アメリカ文化の独自性は、移民らがヨーロッパの文化を引き継いだことによってではなく、西漸運動のフロンティアの中、厳しい自然環境や異なる言語・文化などの、なじみのない諸条件に対する挑戦との闘いを通して形成されたのである。その意味で、ヨーロッパ由来の文化がアメリカ大陸で一度生まれ変わってアメリカ文化になった。そのフロンティアにおける異文化との接触、あるいは互いに理解することが翻訳(translating)ともいえる。
続いて張氏は、現代日本におけるフロンティアとは何か、と問いかけた。中国の方から見るとき、中国は文化の源流で日本はただの受容者とのイメージになりがちだが、その「中国からの視点」は、実際日本を内部から、さらには「翻訳」の視点から理解しておらず、不平等である。翻訳は原作に基づかなければならない一方、原作を超える欲望もある。同時に、西洋文化は日本においては「内部の他者(the other that is within)」であり、西洋諸言語の単語や概念は発音を移入する形でそのまま日本語に入っており、現代日本語はその異質性と主体性との混在状況にある。
フロンティア問題を考えるに際して、張旭東氏はドイツの哲学者・文芸批評家であるヴァルター・ベンヤミンの文章「翻訳者の使命」(内村博信訳『エッセイの思想 』収載、ベンヤミン・コレクション2、ちくま学芸文庫)を参照し、その翻訳理論を紹介した。ベンヤミンによれば、翻訳は思考であり、読むこと、考えること、そして創作することに関するプラクシスである。重要なのは、情報を異言語に伝達し、その精密さを追求することが翻訳の本質ではない、ということだ。翻訳されたテキストを読むことは、自分の(翻訳)言語で哲学をすることと同値であり、外来のものを自分の言語に定着させるプロセスでもある。また、原作はそれ自体の内容に縛られているけれども、翻訳によって初めてテキストが自由になり、その制限を解除することができる。こうした翻訳のプラクシスという過程を通じて、人は「純粋言語」に漸近することができ、自由を得て、自己を形成する。
次に張氏はベンヤミンの「パン」の比喩に擬えて、東アジアの主食である「米」を例として翻訳の性格を説明した。中国人や日本人が「米」という漢字を使うとき、それは英語での「rice」(あるいは欧米系言語でそれに相当する単語)と同じニュアンスを表しているのか。「rice」は欧米ではただ穀物の一種に過ぎないが、「米」という単語には、東アジアにおいては人間の感情や記憶のレベルまで入り込んでおり、また、例えば日中で比べてみた場合、その意味合いはそれぞれ異なる。大貫恵美子氏の著書Rice as Self: Japanese identities through time(Princeton University Press, 1993)において、米は、日本人のセルフ・アイデンティティーとして、純粋さ、富と美を象徴するものとして描かれているが、一方、蘇童の小説『米』(『蘇童文集』収載、江蘇文芸出版社、1996年)では、米は欲望、腐敗、死の象徴である。このように、事実的情報だけの伝達では原作の意味を十分に伝えられないことがわかる。
同時に翻訳は各言語に閉じこめられた意味をあらわにして、原作をより読みやすくし、オープンにすることもできるが、その中核にあるのは翻訳不可能性であるとベンヤミンは指摘している。伝達できない「詩的」部分ではあるが、その触れられないものを再解釈、再生産する必要がある。それに対して張氏は翻訳のいくつかのポイントを総括した。翻訳は生産的、先験的に原作との一致を目指すプロセスである。また、翻訳は愛を込めて原作を取り入れ、止揚し、「もっと偉大な言語」へと向かう活動である。そのために翻訳には「逐語翻訳」の手法をとるべきである。翻訳不可能な箇所を翻訳するに際して、優雅できれいな形式として完成させることは当然難しい。魯迅が主張する「硬訳」、つまりあえて渋い翻訳を選択するという方法がある。魯迅は「硬訳」を通して、中国語を変え、新思想を植えつけようとしたのである。
ではなぜ翻訳が必要なのか。ベンヤミンは人間共有の経験が存在すると信じ、また、その経験は真理にも繋がるが、翻訳を通じてさらに大いなる共同体を作り出すことができると考えた。それと同時に、翻訳はリーディングと類似して、瞬間的緊張感、不満足や衝突を引き起こすが、こうした経験を通して我々は、自分に対する理解を深め、自己を更新することができる。
最後に張氏は、現代社会でどう「翻訳」を理解するかについて述べ、また、EAAのプロジェクトに参加する学生たちへの期待について話した。翻訳は、テキストから言語を解放するが、同時に、我々を自らの言語から解放する。これによって我々は、「偶然的環境」(例えば自分の文化的背景)を超え、多元的視点へのアクセスを確保することができる。したがって翻訳は、文化的本質主義を克服する可能性を持っている。翻訳を通じて自分を再認識することによって初めて、他者との平等的対話が可能になる。また、翻訳は技術至上主義と全体主義とに対抗する有効な手段でもある。科学技術の進展に伴い、情報伝達に限っての翻訳はより簡単になるが、AIなどを使っても人間の本質に関わる個体性の問題、つまり翻訳不可能な部分は依然と解決しきれないものである。個体性がなくなれば、人文学も成り立たなくなる。そういう意味で、翻訳を通して「人間とは何か」という哲学における根本的問題を考え直すことによって、人間の存在様式を確保することができるのではないか、と問いを開きつつ、張氏は講義を閉じた。
報告:胡藤(EAAリサーチ・アシスタント)
学生からのコメントペーパー 「翻訳によって言語を解放する」という考え方は、非常に面白いと思いました。なぜならそれぞれに言語はその言語に固有の思考様式と密接に関わっている、という考え方の方が一般的だからです。したがって、翻訳するということは、原典の言語とは異なった思考様式を強いる言語に書き換えることであり、人文学では原典を重視する考え方が強いように思われます。しかし、先生の言っていたことを私なりに解釈すると、翻訳することは「それぞれの言語固有の思考様式」を乗り越えて、人類普遍の価値を持つ本質的な内容を顕在化する行為であると言えると思います。原典を読むときは、頭の中で日本語に自分なりに解釈することを意識しようと思いました。(文Ⅲ・2年) translationが、unfamilialityなものとの接合的な役割を果たす。translationという行為は、unfamilialityなものとの接触を経て、個人に成長をもたらし、新たなidentityを醸成する。では”translation”とは何か。今回のlectureを受けて、”translation”を「翻訳」と即座にしてしまうことにためらいを感じた。それを「探索」と訳してもいいと私は思う。「探索」という行為を通じて、肉体・精神的に何かが必ず生まれると考える。(文Ⅰ・1年) Because I had always thought of the frontier as something involving force, physical contact, and the creation of something new AT THE EXPENSE OF SOMETHING BEAUTIFUL AND OLD, your idea that the frontier experience can be intellectual, positive, constructive came as a surprise. The example of translation – exposing ourselves to an entirely different world and trying to bring that world into our world without being emotionally oppressive, transformative without being destructive, I assume that, the strength of language – its fluidity, its ability to absorb foreign things yet firmly maintain its uniqueness, its ability to accept “gray areas”, as in words that can’t be translated and expressions that represent entire emotions that don’t exist in other cultures – that makes positive interaction on the frontier possible.(文Ⅰ・1年) やはり単一の言葉だけで理解するということを越えて複数の言語を操ることが大切なのだと改めて実感しました。これは、13回の講義の中で何度も繰り返されてきました。まだまだそのような経験を体験していないので、言語学習にしっかりと取り組みたいです。その先に得られる人類全体に通底する”何か”に触れてみることがさらなる自己発展につながると信じています。フロンティアに立って難題に挑み続けることも大切だと感じました。それこそ「入学おめでとう」の精神を持ち続けていくことの意義だと思います。(文Ⅰ・1年) |