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2019.11.29

EAA「中国近現代文学研究会」第三回活動報告

2019年度秋学期EAA中国近現代文学研究会(第三回)が、11月28日に本郷キャンパス・赤門総合研究棟で行われた。今回は朱羽の近著『社会主義と“自然”――1950―1960年代中国美学論争と文芸実践研究』(北京大学出版社2018年)を中心としてディスカッションした。

鈴木将久氏(東京大学人文社会系研究科教授)は、まずこれまでにディスカッションしてきた、中国社会科学院の研究者たちが代表する「社会史的視野」派の研究のもっている問題意識についていくつかの点を補充した。「社会史」派と朱羽は、ともに社会主義文芸実践の可能性とジレンマという問題に集中しながら、歴史的現場へ接近しようとする。しかも、さらに重要なことに、われわれのもっている歴史観それ自体に問題があるから、反省が不可欠だと両者とも論じている。両者が異なる点は、「社会史」派は往々にして歴史的アーカイブを分析することに関心を持っているのに対して、朱羽の著作は理論的洞察を通じて論述を行っていることである。むろん、両側面は互いに働き合うべきものである。両者にとって、難問はいわゆる「大躍進」時期の文芸創作を如何に理解すればいいか、ということに尽きる、と鈴木氏は述べた。なぜなら、歴史的資料が欠如しているだけでなく、イデオロギーに関する問題も絡んでいるからである。ただ、「社会史」派にしろ朱羽にしろ、つまるところ、彼らの共有している関心は、歴史そのものでなく、現代の中国歴史にある、と鈴木氏は強調した。いまだ「社会史」派の営みはまだ終わっていないので、これからいかなる方法で彼らの研究と関連していくのか、というのも考えなければならないことである。

王欽(東京大学東アジア藝文書院特任講師・報告者)は、朱羽の著作のタイトルについて紹介した。いわゆる「自然」の問題は、はじめから芸術的に表象され、経済的に搾取されるものではなく、社会主義の制度化や自己確認や価値生成や正当化などの一連の難問に緊密に繋がっている問題系の総命名だ、と王は言った。「自然」という概念を通じて、並列しているようにみえる様々な議題を統一させて、社会主義文芸実践の内包した「自然」問題はあの特定の時期に実践された文芸における多くの矛盾、緊張、活力、可能性を集約しているということを、作者は表している。「大躍進」時期の「新民歌」を分析することによって、朱羽はこの社会主義的文芸実践のなかでもっとも政治的強度に満ちた瞬間が、ドイツロマン派的芸術に近づいていることを提示している、と王は指摘した。つまり、芸術の価値は作品のなかにあるのでなく、創作活動によって露呈されるものだ、という。それと関連して、「大躍進」の革命的要請は芸術生産のリズムと速度を、普段に全体的に革命化された生活様式の中へ回収しようとし、したがって、芸術の生産様式を変えたのみならず、芸術作品に対する受け取り方と理解の仕方も変わった。もし「大躍進」時期の政治的強度は人々の革命的意識を措定しているとすれば、対極にあるのは朱羽の提示した「革命的に気を散らす」ことである。後者は人々の日常生活に適合し、もっと「自然的」なように見えながらも、実は社会主義「政教機制」の危機をはらんでいる、と王は指摘した。なぜなら、社会主義革命は、「革命的に気を散らす」ことを日常化することを要請する一方で、否定されるべき些細な日常生活を不断に再生産しているからである。

鈴木氏は、朱羽の「革命的に気を散らす」ことに関する論述は、実際蔡翔の『革命/叙述』で論じたことを受けている、と言った。問題になるのは、文芸的表象を対象として「革命的に気を散らす」というべき現象を考えることが相対的に容易いことだが、歴史的アーカイブから同じような現象を見出せるかどうか、ということである。一方で、鈴木は朱羽の社会主義的「山水画」の分析に言及した。つまり、「社会史」派は画の内容に集中しがちであるが、朱羽の分析は画の形式に集中している、と鈴木は言った。興味深いことに、「山水画」についての論考が終わると、朱羽はただちに周立波のテクストを例にとって論じた。両者のつながりは実に意味深いが、もし内容的分析と形式的分析を融合して切り込み、歴史的分析と理論的分析を結合させて論じれば、「山水画」の面した歴史的コンテクストをもっと全面的に展開できるであろうと鈴木は判断した。

王柳は朱羽の著作のもっている方法論的啓発を強調した。このテクストが「社会主義実践は如何に行われるべきか」という難問に直面しながら、いまでも存在している社会問題に示唆を多く与えた、と王は言った。1980年代研究にとっても、朱羽の著作は興味深いものだ。これに関して、鈴木は李準の創作を引き合いに出した。例えば、李準の1980年代に書いた作品と社会主義時期に書いた『李双双』は、スタイルから内容まで、全然違うけど、この転化をもたらした動機は必ずしも「文化大革命」につきるものではなく、むしろ別の新たな方式で社会主義農村の変革のあり様を描き出す企図にかかわっているかもしれない。この例も、われわれに1980年代文芸実践を再考する手掛かりを与えている、と鈴木氏は指摘した。朱羽の著作は、珍しく社会主義の精神に沿って社会主義を理解しようとする試みであり、社会主義実践を社会管理まで還元するものではない、と王欽は補充した。鈴木は、この特徴が蔡翔の著作にもあり、それは社会科学的アプローチと違った角度で社会主義的革命実践を文学的に把握しようとする両者の共有する姿勢をはっきり浮き彫りにした、と述べた。

次回のイベントは12月19日に行われる予定である。

文責:王欽(EAA特任講師)