ブログ
2020.12.23

2020年12月21日「歴史、社会、文学批評:中国現代文学研究の方法及び射程」会議報告

2020年1221日、東京大学東アジア藝文書院(EAA)と華東師範大学批評理論センター(ICCT-ECNU)の共催による学術シンポジウム「歴史、社会、文学批評:中国現代文学研究の方法及び射程」が開催された。司会はEAA特任講師である王欽氏が担当した。

最初の議論は、東京大学東アジア藝文書院副院長の石井剛氏による報告「現代「科学」観念の復古と革新:章太炎の中国医学論による啓示を兼ねて」によって始められた。章太炎の中国医学に関する議論を通じて、中国の近代化プロセス及び難関を論じようと試みた。中国が百年もの間強調してきた「科学」の精神を出発点とし、石井氏は「科学」言説の主導性の背後には、科学のレベルを上回る精神性の志向が実際に潜んでいることを指摘する。西洋医学が全面的に尊崇された20世紀初頭において、章太炎の中国医学への関心は反時代的だったかもしれない。彼は「細菌」と「疾病」の必然関係を取り消そうとし、「菌」は「草木」と同じだと理解していた。従って、彼にとって重要なのは原因としての物質ではなく、症状の具体的な変化である。章太炎の自然への観察は、彼の「斉物」哲学と密接な関係を持つ。章太炎にとって、普遍性の追求は特殊性の探求によってのみ達成されるのだと、石井氏は結論を提示した。

石井氏に続いて発言したのは、東京大学人文社会系研究科の鈴木将久氏であった。報告テーマは「現代文学における「感情」の問題」であり、史学研究における「感情史」を手がかりとし、『方方日記』などのテクストを借りて文学の「情緒を表現する」技術を議論する。「感情を煽る」技術は敵対を生む。それは、私たちが身を置いている世界が私たちの情緒を非常に脆くさせている今、二元対立を導き出してしまいやすい。従って、「情緒」の問題にどう対処するのかは非常に喫緊であるのだ。鈴木氏が述べるに、『方方日記』をめぐる現在の一連の論争は、1970年代末の「傷痕文学」の内容と問題意識とほとんど違い無い。それは「文革の傷痕」問題が依然と解決されていないことを意味する。感情と理性、個別と普遍などの対立をどう考えるかは、以上の問題を考えるための重要な手がかりであると、鈴木氏は結論を示した。

第三の報告者は上海大学中文系の朱羽氏であった。「文学批評は如何に「直言」するのか?」をテーマとし、現代文学の「有力/無力」を問題意識の切り口に、次のような問題を提示した。今、私たちは現代文学をどう教えるべきなのか?朱氏によれば、文学批評はそれ自身に備わっている「直言」の機能を発揮し、「文」として文学と社会、文学と歴史の媒介者となるべきである。文学作品の形式を批評し、識別し、しっかり把握し、それをより確かな歴史文脈の中において評価する。朱氏は、今の文学批評の力は「批評できないものはない」現状にあると述べる。同時に、批評はそれ自身の歴史における方法と位置を反省するべきで、従って「この時/目下」こそが批評の真の源であり、全ての矛盾の集中点であると論じる。

続いて、華東師範大学中文系の倪文尖氏は「テキスト及び精読の潜在的可能性と限度」を報告テーマに、たとえ文学が現実に参与する方法であるとしても、文学者が成したあらゆるものを「文学」と称することはできないと論じた。テキストの精読は新批評的な「抠字眼」(字句を細かく詮索すること)ではない。広い問題意識と全体性がなければテキストに入ることはできない。これらの指摘をした後、倪氏はいくつかの仮説を提示して見せる。一、文学批評の核心要素としての作品。二、作品を生んだ作者は読者より立ち位置が高い。三、たとえその表現が支離滅裂であったり、非理性的であったり、分裂していても、テキストは有機的な全体である。四、テキストの文脈に限度はない。しかしテキスト自身がテキストの第一の文脈を構成している。五、テキストの内容はテキストの形式に等しい。

華東師範大学国際漢語文化学院の毛尖氏は、「現代文学における「善良」及びその結果」をテーマに、なぜ中国の昨今の映像作品に「善良な」人物が大量に登場するのかを問題意識とした。一方、中国古代文学には「美を尽くす、情を尽くす」(尽美、尽情)と「美と不善」の伝統が存在していたが、現代文学において「善良」は往々に「保守」と何らかの関係を持っている。他方、「善良」は香港や台湾文学の中では儒教文化の代名詞となっているが、1949年後の大陸文学では労働言語と革命言語が多くの恋愛言語に取って代わっている。「傷痕文学」において、「善良」は再び美徳として現れるも、善良な人物は同時に労働の品性を引き継いでいる。これらの結合は1980年代中期に徐々に後退してゆき、「共和国女性」が「新時代女性」が取り替えられたことが象徴的である。現在における「空虚」な「善良言語」の登場は、革命・労働・公式言語の重層的な失敗を表しているのだと、毛氏は論じた。

続いて、同じく華東師範大学国際漢語文化学院からの講師である朱康氏が「現代文学と文体批評」をテーマに報告をした。フレデリック・ジェイムソンの『政治的無意識』で論じられた文体構造と歴史の間にある関係を通じて、文体はそのものが形式として内容の表現であることを指摘する。文体の形式としての持続性は、テキストに異なる時代の要素が存在している現象をもたらす。中国文学芸術工作者第三次代表大会における周揚の発言をもとに、朱氏はそこには多様な文体の重層が含まれていると論じる。たとえその中のいくつかの文体はすでに歴史的内容を表現する力を失っているとしても、社会主義文学の内部には複数の文体が持続している。社会主義時代においては、一つの膨大な総合的文体体系を確立しようとする試みが展開され、当時の文体批評は皆文体と社会生産との間の内在関係に触れていた。同時に、この体系の中では時空感覚の違いのため、ある特定の文体すなわち社会主義生産のスピードに対応した短く迅速な文体に優先地位が与えられたのであった。

最後に、華東師範大学中文系の羅崗氏は「「現代文学」の「極限」と「下限」」をテーマに、全体的な意味のレベルから現代文学の自己拡張の限度を反省した。羅氏は「現代文学」に関するいくつかのの規定を明瞭に整理し、王暁明の論述を借りて現代文学の転向はメディア状況の変化がもたらした結果であると指摘する。一連の歴史構造によって規定される「現代文学」は新しいテクノロジー生産の条件のもとで挑戦に晒されている。目下のデジタル資本主義はあらゆる方面において深刻な変化を引き起こしており、このような変化に答えた最初の学術言説は、東浩紀の所謂「ゲーム的リアリズム」だったと羅氏は述べる。『繁花』、『三体』、『大国重工』、『臨高啓明』など現代中国の四つの小説を挙げ、羅氏は上述した深刻な変化に対する「現代文学」の反応方法及びその結果を議論した。

報告者=王欽(東アジア藝文書院特任講師)
日本語訳=張瀛子(東アジア藝文書院RA