東アジア藝文書院(EAA)では2019年度の「30年後の世界へ――リベラル・アーツとしての東アジア学を構想する」、2020年度の「30年後の世界へ――「世界」と「人間」の未来を共に考える」につづき、新年度の2021年度も学術フロンティア講義を開講いたします。
【科目情報】
2021年度Sセメスター
学術フロンティア講義「30年後の世界へ——学問とその“悪”について」
金曜5限(午後5時05分から6時35分)・オンライン
教養学部前期課程主題科目/教養学部後期課程高度教養特殊講義(東アジア教養学)
※ 履修・授業に関する詳細な情報については「UTAS」よりご確認ください
※ 授業フライヤー PDF版ダウンロード
【開講趣旨】
2019年に発足した東アジア藝文書院(East Asian Academy for New Liberal Arts, EAA)は、「東アジアからのリベラルアーツ」を標榜しつつ、北京大学をはじめとする国際的な研究ネットワークの下に、「世界」と「人間」を両面から問い直す新しい学問の創出を目指す、東京大学の研究教育センターです。学問はわたしたちにただ単に未来を予測させるものではありません。そうではなく、わたしたちは学問をすることによって、わたしたちが意志して望む未来を創出しているのです。そこでわたしたちは、学問のフロンティアであるここ駒場に集う先生方とともに、皆さんが社会の中心で活躍しているであろう「30年後の世界」に向かって、学問的な問いを開く試みを発足当初から行っています。
2020年以来、人類は新型コロナウィルス感染症(COVID-19)の災禍に苦しんでいます。しかし、この災禍は、実は、「すでに気づかれていた弊害」が一気に噴出したものに過ぎないのではないかと、EAAの中島隆博院長は問うています(EAAオンラインワークショップ「感染症の哲学」2020年4月22日)。地球の南北どちらに住んでいるかによって生存条件が大きく異なり、また、1%の人口が他の99%の人々の富の総量を所有しているとすら言われる構造的な格差問題、テクノロジーの高度化による生命倫理の動揺や社会生活の一望監視化、少子高齢化の急速な進行、グローバルな人と経済の流動がもたらすさまざまな摩擦や社会分断などなど。COVID-19の世界的流行が示しているのは、感染によって生じる疾病がみごとなまでに、このような「すでに気づかれていた」構造的な弊害を、その構図通りになぞっていることです。コロナウィルスの人類への感染という現象自体が、自然収奪型の近代産業経済が行き着くべくして行き着いた結果であるという声もあります。
「すでに気づかれていた弊害」のひとつひとつをすべて一気に解決する術はどこにもないでしょうし、それを目指したところでよい結果は望めないでしょう。それでもわたしたちは、学問の名において、想像力を解放し、よりよい未来を望むことができるはずです。なぜなら、学問とは「到来すべきもの」を公に向かって告げるものにほかならないからです。未来に進むべき方向を指し示すのが学問によって灯される希望の光であることは、古代ギリシャの昔から変わらぬ真理であるはずです。
しかし、学問を行うわたしたちが、学問こそが善であると頑なに信じているだけでは独善に過ぎません。学問は、そのある部分では、無垢であるどころか、巨大な「悪」に加担してしまっているのではないでしょうか。もしかすると学問は、「すでに気づかれていた弊害」の構造化に寄与し続けてきたかも知れないのです。思えば、20世紀以来、アウシュビッツや核兵器など、人類は極端な悪を自ら生み出してきました。9.11事件で幕を開けた21世紀にはグローバル資本主義と近代産業システムの功罪が深刻に問われる事態をわたしたちは経験し、「善」と「悪」の二元論では片づかない現実に直面しています。学問はこうした諸事態に対して、どのように諸事態を表象し、分析し、批判してきたでしょうか。このことを考えるとき、わたしたちはまた、学問がその「悪」に加担してきたという現実から目を逸らすことはできません。なぜかと言えば、学問の限界と難題(アポリア)を知ることこそが、新しい学問の出発点につながるはずだからです。 新しい学問の出発点は、新しい社会的想像力の出発点でもあります。わたしたちは、ゼロからでも理想からでもなく、自分たちが背負ってきた知の限界や難題を遺産として受け継ぐことで、「30年後の世界」を自分の手で作り出していくしかありません。
フランスの哲学者ジャック・ランシエールは「人間は知性を従えた意志である」と述べます。意志の出発点は、見ること、聞くこと、手探りすることであり、それらはそのまま、意志するひとりひとりの魂と能力を構成していくと彼は言います。中国の詩人顧城の詩に「闇夜はぼくに黒い瞳を与えた。だがぼくはその黒い瞳で光明を探す。」という一節があります。わたしたちの希望は、「悪」を見定め、「悪」のなかから世界を眼差そうとする意志によってこそ生まれるにちがいありません。
この授業に話題を提供するのは、駒場のいまを支え、東京大学の将来を担う先生方や、東アジアをベースに国際的に活躍する先生方ばかりです。哲学、文学、歴史学、社会学、生物学など、さまざまな分野の教員が集まり、皆さんとともに学問の望みを語る場——それがオムニバス講義「30年後の世界へ」の世界です。
わたしたちは、大学で学ぶことの醍醐味を味わいたいと渇望する多数の学生さんが参加してくれることを待ち望んでいます。
第2講 4月16日 佐藤麻貴(総合文化研究科/東アジア藝文書院、環境哲学)
「未来社会2050――学問を問う」
システム工学における、 いわゆるシナリオ分析という未来予測手法を手引きに、従来の機械計算(Turing型)とAI(Deep Learning型)のプログラミングの差異を説明し、コンピュータサイエンスの世界で何が問題となっているのか、ある種の思考の形態の一側面としてのコンピュータ解析について、AI社会を見据えて説明します。また、未来予測から派生する、経済と環境のdecouplingからdegrowth(脱成長)の議論を解説しつつ、人間の想像力という問題を考えたいと思います。
第3講 4月23日 太田邦史(総合文化研究科、分子生物学・遺伝学)
「地球上の生命と人類は30年後にどうなっているか」
皆さんが50歳頃に地球環境がどうなっているのか考えてみてください。そんなことを予測するのはもちろん困難です。しかし、これまでの歴史を調べると、ある程度の方向性は見出すことができるでしょう。この講義ではあくまで生物学を専門とする私の個人的予想の話をしてみたいと思います。今の時代は人類が地球に与える栄養が大きいため、人新世(アントロポセン)と呼ばれています。今後人間がどのように考え方や社会を変えていくか、学問がそれにどのように関わるかによって、世界の将来の姿も相当変わってくると思います。そんなところを皆さんといっしょに考えてみることができればいいと思います。
第4講 4月30日 中島隆博(東洋文化研究所/東アジア藝文書院、世界哲学・中国哲学)
「近代日本哲学の光と影」
田辺元は、西田幾多郎の哲学とりわけその「絶対無」という概念への批判を展開しつつ、自らの哲学的な立場として「種の論理」を練り上げていった。しかし、その「種の論理」は帝国日本の戦争を支えるものであった。田辺が1939年5月から6月にかけて京都帝国大学の学生を前にして講演した『歴史的現実』(1940年)は、学生を戦争に駆り立てる演説であった。
こうした日本帝国に都合のよい「種の論理」を展開した田辺は、しかし、戦争の末期において「哲学的転向」を遂げる。それが「懺悔」であり、『懺悔道としての哲学』である。その「哲学的転向」が何であったのかを検討したい。
その田辺と対照させて、九鬼周造を取り上げる。その『いきの構造』と偶然性に関する諸論考を読解しながら、京都学派の別の可能性も見てみる。
第5講 5月07日 張政遠(総合文化研究科/東アジア藝文書院、日本哲学・現象学)
「香港、そして被災地」
「悪」とは何か。たとえば、儒教における「悪」という概念は、二つの意味をもっている。一つは「好い価値」と「悪い価値」に関する価値論の意味での「悪」であり、もう一つは「性善」と「性悪」に関する人性論の意味での「悪」である。香港と福島の現場におけるさまざまな「悪」を取り上げ、如何にして「悪」を克服することができるのかについて一緒に考えてみたい。
第6講 5月21日 朝倉友海(総合文化研究科、哲学・比較思想)
「悪をめぐる三つのパラドックス」
善は悪であるという逆説がある。正義を振りかざす悪については、カントから批判理論まで繰り返し考察されてきた。悪をめぐってはこれ以外にも、悪は悪ではないとか、悪の存在を認めるのが悪であるなど、いくつか逆説的な事態が認められ、西洋哲学だけでなく東アジア思想でも歴史を通じて思索が加えられてきた。これら悪の逆説について問いをめぐらすことで、これからの世界を考えるヒントを得ることにしたい。
第7講 5月28日 星野太(総合文化研究科、美学・表象文化論)
「真実の終わり?──21世紀の現代思想史のために」
ポスト・トゥルース(post-truth)という言葉が聞かれるようになって久しい。2016年、イギリスの欧州連合離脱をめぐる国民投票やアメリカ大統領選挙が行なわれたこの年、オックスフォード大学出版局はこれを「2016年の言葉」に選んだ。それによると、ポスト・トゥルースとは「公共の意見を形成するさいに、客観的な事実よりも感情や個人的信念に訴えるほうが影響力のある状況を述べたり、示したりする」言葉であるという。以来、この言葉をめぐってさまざまな研究書や論文が書かれてきたことは周知の通りである。その内容は「ポスト・トゥルースの政治」をめぐる実証的考察から、21世紀になって勃興したソーシャル・メディアとの相関を示す統計的調査までさまざまだが、それらとともに目につく、ある気がかりな言説がある——すなわちそれは、20世紀後半に流行をみせた「フランス現代思想」こそが、今日のポスト・トゥルース状況を準備したというものである。いったいなぜ、そのような言説がまことしやかに広がっているのか。また、その内容ははたして妥当なものであるのか。本講義ではこれらのことについて概説的にお話ししたい。
第8講 6月4日 ミハエル・ハチウス(東京カレッジ、日本文化史)
「「知」の歴史からみた学問の「悪」」
近年急成長中の分野、「知」の歴史。知識を生み出すことを社会的な行為として捉えるこのアプローチを用いることによって、学問と「悪」の関係を考える際に重要な知見を得られるのではないか。この期待を抱いて、そして東アジア藝文書院の座右の銘である「東アジアからのリベラルアーツ」を重視しながら、この講演では学問と道徳の歴史的な位置づけを考える。
舞台は幕末・維新期日本。当時の知識人の思考と活動の出発点は儒学の価値観であり、西洋から入ってきた新しい知識体制の受容も儒学の目を通して形成された。その受容過程が進むにつれ知識と道徳の関係とヒエラルキーが大きく変化したことはよく知られているが、近代化を謳った戦後の歴史家が儒学の立場を否定や無視した事実もある。
この講演では、「知」の歴史のいろいろなアプローチを紹介し、特に「実学」という言葉をめぐる言説と論争にスポットライトを当てる。幕末・維新の知識人は、「実学」とその対義語「虚学」を定義し、またある時には武器として用い、新しい時代の学問の最大の「善」と「悪」を議論したのである。近代化と西洋式普遍主義の限界が明らかになっている今だが、改めて幕末・維新を生きた学者たちの経験を顧みることには大きな価値があるのではないだろうか。
第9講 6月11日 鶴見太郎(総合文化研究科、歴史社会学)
「人種・民族についての悪い理論」
民族(ネーション、エスニック集団)については、19世紀以降、様々に議論され、学問においても学際的に理論化されてきた。しかし、民族紛争や民族差別と呼ばれる現象は21世紀に入ってもとどまるところを知らない。民族に関する理論は何かを間違えていたのだろうか。本授業では、今日でいう「ダイバーシティ」に通じる論点を「民族」に関する諸議論が持ってきたことを紹介したうえで、それがはらむ陥穽を指摘し、それを乗り越えるための視座について議論していきたい。
第10講 6月18日 林少陽(香港城市大学、東アジア思想史・文学)
「清末中国のある思想家の憂鬱──章炳麟の「進化」への回顧と、そして将来への展望」
1911年に起きた中国の辛亥革命は帝政を終わらせた革命として知られているが、十年以上も続いたこの革命の海外基地は東京であった。この革命の理論家として、そして清末の碩学として章炳麟(章太炎、1869-1936)がいる。仏教と老荘思想を主に構築された彼の思想は当時の世界の知識人の思想の主流でもある進化論と対峙し、ユニークな議論を展開させた。進化の善と悪の不可分であり相互促進的である両面を取り上げた彼の憂鬱なまなざしは現在のわれわれの現実に迫り、将来への我々の想像を刺激するものでもある。
第11講 6月25日 金杭(延世大学、東アジア思想史・カルチュラルスタディーズ)
「民主主義という悪の閾 ──光州民主化抗争と忘却の穴」
1980年5月18日、武装した韓国軍の精鋭部隊が半島西南部の主要都市光州に降り立った。前年10月26日、軍事クーデターによって政権を簒奪し19年間權坐にしがみついていたパクジョンヒが側近の銃弾に斃れる。その後、さまざまなセクトがひしめき合う政治状況が続く中、いわゆる新軍部勢力がクーデターによって実質的な権力を掌握する。光州の市民たちはこの暴挙に抗うため立ち上がり、新軍部は抜け目のない軍事作戦で市民を暴徒かつ敵とみなし鎮圧を展開した。5月18日から27日にかけての約10日間、光州は韓国の一都市ではなく戦場へと様変わりし、その市民は軍が守るべき国民ではなく排除すべき敵と化した。時は経て1987年6月、全国的な規模における連日のデモによって新軍部主導の政府は民主化の波を抑えきれず大統領直接選挙制を含む改革措置を発表する。いわゆる6月抗争であり、これは概して5月光州への応答として歴史的な意義を与えられてきた。それからというもの、韓国の現代史は光州と民主主義の勝利の歩みとして語られ記録され記憶されることになる。だがその勝利は根源的に返済不可能な光州の犠牲者への負債を清算しようと試みることに他ならない。その試みのなかから 「忘却の穴」 に葬られるのは民主主義の勝利という 「正義」 の表象から追放されるべき何かである。そしてこの忘却と追放によって民主主義は清潔で衛生的な空間と主体を獲得する。だがその限りなく透明で美しい正義は、悪への想像力を断ち切り排除する限りで成立するものである。今回の講義ではその正義の対価がいかなるものかをめぐって議論をすすめたい。それを通して30年後における我々の民主主義がいかなるものであり得るのか、もしくはあり得ないのか、もしくはあらねばならないのかを推し量る機会となれればと願う。
第12講 7月2日 王欽(総合文化研究科、比較文学・批評理論)
「私たちの憲法“無感覚”──竹内好を手がかりとして」
現在、戦後日本憲法に対する「護憲派」と「改憲派」の論争が陳腐化している一方で、論争の陳腐化を批判する言説も陳腐化している状況においては、憲法についての言説がたくさんあるにもかかわらず、人々の憲法に対する“感覚”が逆に薄れている恐れがある。政府側の憲法改正が独り歩きしていくなかで、もう一度考え直さなければならないのは、「平和憲法」と呼ばれている戦後憲法を守ろうとするとき、私たちはいったい何を守るべきか、ということである。今回は日本思想家・竹内好がかつて「安保運動」の最中に行った講演『私たちの憲法感覚』を手掛かりとして、この問題に取り組んでいく。憲法を守ることは、憲法起草者の意図を守るわけではなく、憲法のポテンシャルや未来を守ることでなければならない。
第13講 7月9日 石井剛(総合文化研究科/東アジア藝文書院、中国哲学・中国思想史)
「たたかう「文」: 言語の暴力と希望について」
わたしたちは言語を使って、自分がいまここにあると自覚し、自分に向き合うものごとを認識し、知覚を超えた現象の外側の何者かに対する想像をめぐらしています。言語はその限りで「ものそのもの」、「世界そのもの」とは絶対的に異なっています。そうであれば、言語によってなにがしかについて「正しく(誤りなく)」表現すること自体は、そもそも不可能な目論見だと言わざるを得ないでしょう。では、そうであるにも関わらず言語を使うことによって生きているわたしたちは、虚無の深淵に陥ることなく、尚も言語によって「正しく(ふさわしく)」生きていくことがどうすれば可能になるかを考えなければなりません。主に中国の先人たちの声を聞きながら、この問題について皆さんといっしょに考えてみたいと思います。
【各回のリアクションペーパー】
第1講 4月9日 初回ガイダンス
https://forms.gle/j8VVzSJYijroB3Pm7
第2講 4月16日 佐藤麻貴「未来社会2050:学問を問う」
https://forms.gle/BZz4BUcQxPG8k9Fs8
第3講 4月23日 太田邦史「地球上の生命と人類は30年後にどうなっているか」
https://forms.gle/3XSsntQWXx8DWAYw9
第4講 4月30日 中島隆博「近代日本哲学の光と影」
https://forms.gle/aU1a5Q7LqoJ9p8kf7
第5講 5月7日 張政遠「香港、そして被災地」
https://forms.gle/aywp5gpS641EYWwy5
第6講 5月21日 朝倉友海「悪をめぐる三つのパラドックス」
https://forms.gle/QEYfutJxq9TAVgTS7
第7講 5月28日 星野太「真実の終わり?──21世紀の現代思想史のために」
https://forms.gle/w7S8BfhG1rMTVGaZ6
第8講 6月4日 ミハエル・ハチウス「「知」の歴史からみた学問の「悪」」
https://forms.gle/YygScEJvynXKVTVw9
第9講 6月11日 鶴見太郎「人種・民族についての悪い理論」
https://forms.gle/zgofq6e71ueHLUV88
第10講 6月18日 林少陽「清末中国のある思想家の憂鬱:章炳麟の「進化」への回顧と、そして将来への展望」
https://forms.gle/7U1YGmQYLpP1ZAna8
第11講 6月25日 金杭「民主主義という悪の閾 : 光州民主化抗争と忘却の穴」
https://forms.gle/uoYyETc9YeMme1hY9
第12講 7月2日 王欽「私たちの憲法“無感覚”--竹内好を手がかりとして」
https://forms.gle/HP9PDY7kSxsKYeTZ9
第13講 7月9日 石井剛「たたかう「文」: 言語の暴力と希望について」
https://forms.gle/gFVGHtASK66tQuLT9