2023年1月23日13:00より、第6回「部屋と空間プロジェクト」研究会が行われた。今回は梅村尚樹氏(北海道大学)が、“Religious spaces and locality in medieval China; Valerie Hansen‘s Changing Gods in Medieval China, 1127-1276.”として報告を行った。
仏教・道教・儒教という確立された宗教のほか、中国には数多くの民間宗教があり、知識人階級には属さない人々によって幅広く信仰され、実践されていた。本書は、このような民間宗教に着目し、様々な文献を用いながら、人々がどのような神々を信じるようになり、どのような神が選ばれたのか、経済発展とともに神々自身がどのように変化したのかを論じる。
梅村氏はまず本書の各章について解説した。第1章(はじめに)では、まず歴史的背景について説明する。疫病・干ばつ・集中豪雨、盗賊や軍隊による侵略の時代に、民衆は神々に救いを求めて祈った。本章では、彼らがどのような神々に祈ったのか、そして祈る神々をどのように決めたのかについて、その概略を論じる。第2章(信徒の選択)では、洪邁(1123-1202)『夷堅志』の記述に基づき、民衆の目を通して見た神々の世界について説明する。第3章(神々を解き明かす)では、民間宗教の神々の様々な側面について分析する。民間宗教の神々は、当時の民衆と相互に依存する関係を持ち、慈悲深くユーモラスで、時には復讐心も持ち、気まぐれでもあった。第4章(称号の付与)では 、民間宗教の神々がどのように公認されていくのか、そのプロセスについて説明する。中央政府による神々への称号の付与は11世紀後半から徐々に広まっていった。地方官が特定の神に称号を与えるため中央政府に申請すると、中央政府はその神が本当に奇跡を起こしたかどうかを調査した上で称号を与えた。第5章(湖州の民間の神々)とそれに続く章は、宋代の民間宗教を、地理的条件と商業地域の形成に関連付ける。本章では、湖州という南宋に大きな変容を遂げた商業都市に焦点を当て、民間宗教の神々について詳細な分析を行う。第6章(地域カルトの台頭)で筆者は、伝統的な地元の神々は、彼らが崇拝され、奇跡を行える地域が限られていたという。伝統的な考え方では、神々は彼ら自身の土地を持っていた。この原則は南宋になり、境界を越えて他の地域の神々を崇拝する人々が出現すると、彼らを批判するために引用された。宋代の商業革命以前は、多くの人々が土地に依存し、自給自足の生活を送っていたため、この伝統的な原則を知らなくても問題は発生しなかった。
本書に対する梅村氏のコメントは以下の通りである。Hansen氏の研究の最も注目すべき点は、宋代の商業革命が人々の移動の範囲を拡大し、それが今度は民間宗教の神々への信仰の範囲を拡大したことを示したことである。一見ばかげた、超自然的な民間宗教の世界に対し、基盤となる社会の経済状況という観点から分析し論理的説明を加えた優れた研究であるといえる。
もう一つの重要な点は、中国宋代の社会における「地域性」の問題に関わるものである。科挙に不合格または合格が絶望的だと感じた知識階級は、中央ではなく地域社会で活動することで、自分の立場を維持しようとした。地元の知識人や地方官が民間宗教に果たした役割も、彼らの具体的な活動例として注目に値するだろう。
また、このような背景のもとで「地域性」という概念や感覚も変化したと考えられる。著者は、当時の人々がどのような空間の範囲を「地域」と見なしていたのかという問いに、宗教的な領域という一つの答えを与えた。宋代は、人々がよりローカライズされ、地域アイデンティティを発達させた時期であり、地理的空間に対する人々の認識がいくつかの層に分離され、明確化された時期と考えることができる。
質疑応答では、Daoism(道家思想)とTaoism(道教)の違いについて議論された。本書では、Taoismという言葉が一貫して使用されており、宗教的な意味を含んでいた。しかし、この宗教には形而上学的な基盤がないため、キリスト教など西洋の宗教とは大きく異なる。梅村氏は、中国の民間宗教で信仰される「神」は、一神教のGodではなくdeitiesであり、このことが東西の宗教観の違いにつながるのではないかと答えた。また、本書が論じる民間宗教の変化は、生き生きとした人物を神の像として描き始めた宋代絵画史の変化と一致するのではないかという意見もあった。さらに、宗教施設が都市計画とどのように関連しながら建設されたかについての質問もあった。梅村氏は、宗教施設は都市のあちこちに雑然と散らばっており、仏教や道教の寺や廟のほか、様々な小さい神々が他の神々と隣り合いながら点在していると回答した。中国の宗教施設と都市との関係は、教会や広場を中心とした欧米の都市とは大きく異なるといえるだろう。
報告者:田中有紀 (東洋文化研究所)