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2023.11.06

【報告】社会思想史学会パネル「伊波普猷研究の新展開——崎濱紗奈『伊波普猷の政治と哲学』を読む」

この度、報告者(崎濱紗奈:EAA特任助教)は幸運にも、20231028日・29日に行われた社会思想史学会(於南山大学)に参加する機会を得た。きっかけは、私もメンバーとして参加させて頂いている、東京大学グローバル・スタディーズ・イニシアティヴ (GSI)キャラバン「群島と大洋の思想史——太平洋のグローバル・ヒストリー」率いる馬路智仁氏(東京大学)より、拙著『伊波普猷の政治と哲学——日琉同祖論再読』(法政大学出版局、2022年)の合評会を開催しませんか、とお声がけ頂いたことだった。刊行から1年が経過してなお、このような企画をご提案頂いたことに加えて、沖縄研究をご専門としているわけではない馬路氏(ご専門は近代イギリス・ヨーロッパ政治思想史)からお声がけ頂いたことを、本当に嬉しく思った。さらに幸甚なことに、評者として、数々のご著作を拝読する中で私が長年敬愛してきた冨山一郎氏(同志社大学)と、マックス・ヴェーバー研究と沖縄研究という二つの軸足をもとにご研究を積み重ねてこられた三苫利幸氏(立命館大学)をお迎えすることができた。

伊波普猷(18761947)は、沖縄研究に携わる者にとっては馴染みのある思想家である(「沖縄学の父」と呼び習わされてきたことからも分かるように、沖縄研究の礎を築いた人物として有名だ)。だが「沖縄」という枠をひとたび超えた時に、その名を知る人は必ずしも多いとは言えないだろう。拙著では、その伊波の思想、とりわけ生涯を貫く主張であった「日琉同祖論」という言説について、従来とは異なる解釈を提示することを目指した。それは、伊波普猷の思想を詳細に分析したいという動機からではなく、伊波が提示しようとした問い——資本主義と「政治」の関係——を、現在的文脈において今一度考え直したい、という欲求に根ざしたものであった。冨山氏・三苫氏ともに、私のこの欲求を正面から受け止め、それぞれ別の観点からクリティカルなコメントをくださった。

冨山氏は、拙著が主題として論じた、不可分なものとしての「政治」と「主体」という論点について積極的に評価してくださった上で、伊波普猷のテクストにそのようなテーマがせり出してくる契機としての「蘇轍地獄」という経済危機の歴史性について、今一度検討する必要性についてご指摘くださった。拙著では、伊波の思想に一貫して天皇への批判意識(伊波の同時代的な問題としての国家神道への批判から、本源的蓄積を基礎付ける王権としての天皇の権力への批判までを含む)が見られると主張した。冨山氏が指摘した「歴史性」とは、歴史的事実としての「蘇轍地獄」が伊波においてどのように理解されていたのかということを超えて、それが彼の思想・哲学にどのように反映されているのか、という問いかけであったと受け止めた。

三苫氏は、伊波の同時代人としてのマックス・ヴェーバーの思想・哲学を比較参照しながら、特に両者における「科学」の受容と、自身の議論への摂取という論点についてコメントをくださった。とりわけ、「蘇轍地獄」を契機として伊波に生じた思想的転換を、当時の知的−学的状況においてどのように位置付けることができるかという具体的な問いが投げかけられた。また、資本主義と「政治」という問いを考える上で、なぜ「おもろ」をはじめとする古謡研究という手法が伊波の中で採用されたのかという問いも、単なる方法論への問いを超えて、伊波の思想・哲学を理解する上で重要なのではないか、というご指摘も頂いた。

お二人の評者からのコメントに加えて、フロアからもご質問を数点頂戴した。また、司会を務めてくださった馬路氏からは、本書をどのような読者に対して届けたいか、という問いが投げかけられた。それに対して私は、「沖縄」という枠を超えて、思想・哲学を通して、現実の世界のあり方を変えたい、変えようと望む全ての人に読んでもらいたい、と応答した。思想や哲学は、現実政治を変えるための、即効力のある手立てでは決してないかもしれない。だが、過去の歴史を省みるとき、時代の変わり目には必ず、言説の大きな変節が伴ってきたことを、私たちは知っている。思想・哲学を単なるアカデミックな一領域として捉えるのではなく、そこに批評精神を宿らせるための手立てを、これからも思考し続けていきたい。

最後に、このセッションの企画段階からお力をお貸しくださった古田拓也氏(二松学舎大学)と上村剛氏(関西学院大学)にも、この場を借りて深く御礼申し上げたい。

 

報告者:崎濱紗奈(EAA特任助教)