2023年6月9日、今年度学術フロンティア講義の第八回では、川添善行氏(生産技術研究所)が登壇し、「建築と空気」について講演を行った。この大きなテーマに迫る手がかりとして、氏が自らプロジェクトリーダーとして関わった、本郷キャンパス総合図書館の別館・ライブラリープラザと地下自動化書庫の建設工事を紹介した。
光、音、温度、圧力など、空気を媒介とする複雑な力。そして、それと人間との相互作用からやがてできあがる建築物。建築家は、このような様々な要素の働きとぶつかり合いの中で、空気を通して空間をつくり、また空間を通して空気(感)をつくる。ところが、多様なアクターによる共同の産物である建築が、建築家の本来の意図や狙いを裏切ることも少なくない。というのは、人々が一つの空間に関与していくにつれ、当初思いがけなかった新しい価値が自然と生み出され、そこから次につながるヒントもしばしば発見されるからであると、川添氏が語った。
とはいえ、建築のこうした特徴が、必ずしも創造的な方向に展開されるとは限らないようにも思われる。例えばライブラリープラザは、「大学が議論すべき場所だ」という価値観のもとで設計されたが、パンデミックという予期せぬ急変によって、あるいは「発声禁止」を貫く感染症対策という権力の介入によって、それが発揮されることがなかった。この場合は、もともと空間に託されたはずの価値が、建築物の中に閉じ込められたまま枯れていくのだろうか。それとも、空気または「気配」として、私たちの五感に働きかけて花咲くのだろうか。身の回りの「気配」を通して価値を再発見することは、もはや建築家の仕事のみではなく、未来に向けて知恵を絞る私たちの課題でもあるのかもしれない。
報告者:ニコロヴァ・ヴィクトリヤ(EAAリサーチ・アシスタント)
リアクション・ペーパーからの抜粋
(1)私の父は俗に言う「建築家」で、コロナの時は父の仕事を近くで見ていました。父は(それが良いかどうかはわかりませんが)「人のお金で家を設計できるなんで天職だ」とよく言っており、その通りだなと感じます。しかし、今回の講義を通じて「建築家」の捉え方が大きく変わりました。
特に講義で印象的だったのは噴水の話です。確かに人間は元来自然に生きていたはずで、自然と触れないと「枯れてしまう」という感覚が自分の中でもあり、実際の生活でも体がそのように設計されていると思います。1日の10%も人間が本来属していた環境で生きていないことは、改めて考えてみれば非常に違和感を感じざるを得ないことであり、それだからこそ「自然」を取り戻すことが必要だと思います。
これは太陽や水といった典型的な「自然」でなくても良いと講義を聞きながら考えており、人と人との関係の再構築も必要だと感じておりましたが、講義でその点も触れられており回収された気持ちです。あたたかい関係性をどのように復活させるかが自分の中でのテーマで、それを形作る「空間」から考えていきたいと思います。ご講演ありがとうございました。(教養学部・2年)(2)一連の「空気の価値化」に関する連続講義の醍醐味は、いかにして「空気の価値化」という主題からズレていくことにあると思う。今回の講義は、常に、「空気」「空間」「空気感」というテーマを軸にしつつも、川添先生の専門性やこれまでの歩みの引力に惹かれてズレていく。このズレにこそ講義の諧謔性があり、多くの先生方をお招きしてお話を聞く意味がある。さらに、この「ズレ」にこそ、産学共創の意義があると思う。「空気の価値化」という、一見ダイキンに迎合しているとの謗りすら受けかねない主題から、予想を裏切って「ズレ」ていく。しかし、それゆえに豊かな学びが生まれているように思う。おそらく、受講しているダイキンの方々にとっても「空気の価値化」というテーマからは予想もつかない話が展開していることであろう。
ここには、発注されたものを期日通りに着実に納品することが求められるビジネスと、その場性をおびた「知」が生成する学問の相違ともいえよう。このような知のあり方は、その面白みへの共感により価値づけられているように思う。果たしてこのような面白みは普遍的なものだろうか?その場的であり、生成的な知は一般(これが何を指すか自体も問題であるが)に理解されるのだろうか?
この問いにアプローチするために、他の産学共創や産学連携の事例を分析する必要があると思う。これまでの産学連携のあり方は、企業が大学に「発注」し、その求められたものを期日通り納品するだけのものになっていたのではないか?アプローチする過程で、この疑問も解けると思う。(教養学部・3年)