2023年4月14日(金)、学術フロンティア講義「30年後の世界へ——空気はいかに価値化されるべきか」の第2回では、中国哲学を専門とする中島隆博氏(東京大学東洋文化研究所所長)が「花する空気」と題して講義を行った。
「花する空気」。この不思議に聞こえるタイトルは、井筒俊彦がスーフィズムの哲学体系を紹介する時に用いられた言葉に由来する。井筒曰く、そのメタ言語において「花が存在する」ではなく、「存在が花する」という表現が用いられているという。中島氏は、そこからさらに西洋哲学における「存在(being)中心主義」に疑義を呈し、「花する(flowering)空気」という意味における「空気の価値化」を思考することを提唱した。
中島氏は、現代社会における人間間、種族間の格差や、自ら奴隷たることを強いる生政治の問題に言及し、人々の「ソーシャル・イマジナリー」自体に変更を迫る必要があると主張した。そのヒントを、禅僧の旅に見られる創発的な関係性や、西平直が提唱する他者と共に楽しむ「養生(衛生や健康ではなく)の思想」に求めた。また、中島氏は山内志朗『湯殿山の哲学』を取り上げ、目的達成を目指すキネーシスではなく、花が咲くように目的が過程に内在するエネルゲイアの在り方をさらに発展し、他者と共に花する「アレルゲイア」の倫理を展開した。
「空気の価値化」は、本質としての価値を確立することではなく、他者とのインタラクションの中で初めて生じる「価値化」のプロセスそのものである。そして、空気は国境や種族を超えてあらゆる命に共有されているものであるゆえに、もはや人間に限定できる問題でもない。空気を調節する(Air-conditioning)ことを、人間の生の条件を相互に調節すること(Human Co-becoming / flowering)へと繋げる中島氏の議論は、他者に向き合うことへの鋭いヒントに満ちていた。空気を読むのではなく、空気を一緒に作り変えること。それがどのように制度に結実するのかという民主主義にも関わる問題が、我々に投げかけられた。
報告者:邱政芃(EAAリサーチ・アシスタント)
リアクション・ペーパーからの抜粋
(1)存在の中心を回る人間哲学をやめ、生成変換としての人間を見つめよう(human co-becoming)というお話の中で、生成変換の意味する先は、能力が花開くということではなく、望みが花開くことなのだと先生はおっしゃっていました。これに対して本学学生から非常に能力主義的な立場からの反論があり、The tyranny of meritとして知られるメリトクラシーの病理に興味がある私として、深く考えさせられる部分がありました。学生からの質問でもペーパー試験が能力の指標として上がっていたように、能力主義の再生産及び強化には、ペーパー試験による入学可否決定に見られる、閉鎖的な大学の在り方が多分に関わっているようです。(中略)そこで、私は大学の在り方という問題を、入学試験の観点から考え、入試の根本的な改革が某か社会に良い影響を与えるのではないかと感じました。例えば、バカロレアのよう入試に哲学的思考を導入しても良いかもしれないし、誰しもが正規の学生とまで言わずとも、如何なる大学の授業を受け、施設を利用することもできるような有り様を想像してもいいかもしれません。(教養学部・2年)(2)人間は「自立」することができるのだろうか? 文字通り、支えるものなしに、自ら立つことは、中島先生のお話を聞くと不可能なのではないかと感じた。Human Co-becomingという観点からすると、他者に依存していない者はこの世に存在していないのではないかと思ったのである。(中略)ただこの結論はいささか安直に思われる。
もう少し緩く解釈するとするならば、依存する他者が複数いる人間のことは相対的に「自立」していると言うことができるかもしれない(これはもはや「依存」と「自立」の二項対立から脱構築的ではあるが)。これすらも「自立」と認めないのは、社会関係資本に富んでいる人間のことを自立していないとすることとなり、「自立」をそもそも望ましいものとして定義するのが難しいように感じる。加えて、目的が外部から操られていない人間のことも、「自立している」と言えると思う。中島先生は目的を持つことから解放されないか?とのご提言をなさっていたが、私はそれは究極的には不可能であると思う。「自分の望んでいることを達成するための目的」は持つべきだと思うのであり、ここで重要なのはその「望み」が外部からの評価ではなくて、内部から(=自分から)の評価に基づいていることが大切なのではないだろうか?(教養学部・2年)