2022年6月24日、村上克尚氏(総合文化研究科)が講義を担当された。
村上氏はまず、クリティーク(批評)としての文学理論を紹介した。村上氏は、小森陽一「『こころ』を生成する『心臓(ハート)』」 『文体としての物語』 増補版 (青弓社、2012年)所収を例に用いた。小森は夏目漱石『こゝろ』を批判的に読み、テクスト内で明示されなかった内容を指摘した。これは、読者や社会の常識を問い直すことに他ならない。
村上氏は次に、Rita Felski, The Limits of Critique (University of Chicago Press,2015)を紹介した。Felskiはクリティークを批判し、「ポストクリティーク」を提唱している。クリティークはテクストをそのまま受け取ることはせず、むしろ自身の解釈をテクストに押し付ける。そのため、第一に、クリティークはテクストの影響力を過少に見積もり、政治性を基準にテクストを評価している。第二に、クリティークはテクストへのさらなる批判を追究し、一般読者の解釈から乖離している。一方で、「ポストクリティーク」はアクターネットワーク理論を用いて、これを解決しようとする。つまり、「ポストクリティーク」はテクストもアクターとみなし、テクスト、読者と批評家の間に成立する情動(affection)を重視する。
村上氏はテクストと読者との「共生」を主張する「ポストクリティーク」へ、一定の理解を示した。村上氏は同時に、「ポストクリティーク」と保守主義や新自由主義の親和性が高いことに懸念を示した。村上氏は結論として、「ポストクリティーク」とクリティークの双方が必要であると述べた。
執筆者が思うに、「ポストクリティーク」は保守主義や新自由主義と簡単に結びつけられない。というのも、人文学や批判の価値に対する懐疑的態度は、両者への賛同を必ずしも意味しないからである。また、政治的イデオロギーに基づく「ポストクリティーク」批判は、まさしく「ポストクリティーク」が批判する、クリティークの政治性の実例である。
報告者:横山 雄大(EAAリサーチ・アシスタント)
リアクション・ペーパーからの抜粋
(1)授業で取り上げられた小森論文に出てきた「自身と他者の違いを強調することで共感が可能になる」という言葉が印象的であった。この言葉から次のような問いを立てた。「同じ対象に対して異なる考えを持つ他者と共生することは必要か、またどうすれば可能か」。
対象が文学作品である場合、共生は必要である。さもなければ、たちまち自分の解釈のひけらかしと他者の解釈への嘲笑が横行し、気の弱い者がその作品が作り出す語り合いの場から弾き出されてしまう。そして、共生は「相手が自分と違う考えを持つことを認めよう」という意識があれば、比較的簡単に実現できるように思える。
問題は、対象が政治的懸案である場合だ。政治では「他者が違うように考えてもいい」というのでは終わらず、国民全体をカバーできる政策を打ち出せねばならない。そして完全な歩み寄りが毎回できるわけでもない。他者(政敵)と自分は、どちらの意見が通るかを巡って争うことになる。しかし、このような場合も共生は必要なのだ。なぜなら、仮に敵を破滅させるような争いの結果、どちらかしか生き残らなかったとしたら、それ以降の政策立案は偏重し、時代の変遷についていけないかもしれない。そこで、自分の考えにも他者の考えにも限界があることを認識し(これこそクリティークの為せる技である)、自分と違う他者の考えにも社会をより良くする可能性があるとこれを愛する(これこそポストクリティークの為せる技である)ことで共生を実現していかねばならない。(文科一類)(2)本授業は、テクストの批評におけるテクスト批評者とテクストの書き手及び読み手との共生を問うものであった。ここを出発点とし、私は「いま目の前にはいない他者」との共生がいかにして成立するかを問いたい。
これまで私は、共生すなわち共に生きるということは、空間や時間を他者と共にすることだと考えていた。たとえば遠い国で戦争をしている人たちも、地球という空間といまという時間を私と共にしている。しかし、テクスト批評者とテクストの書き手、あるいはテクスト批評者とテクストの読み手はそのように共生しているのだろうか。もちろん、どちらの場合でも地球という空間を共有しているとはいえるが、ここでの共生の主眼はそこにはないはずである。それらの存在が共にしているのは時間でも空間でもなく、テクストそれ自体である。批評家は、書き手や読み手とテクストを共にしているのであり、その点においてこそ共生が問われるべきである。
時間や空間ではなく、テクストを共にする他者という存在は全く新しい共生像である。ここから私たちは何を得られるだろうか。それは、直接的には顕現しない他者との共生に対して私たちは「そこでは何を共にしているのか」と問うことが可能だということである。
いま、改めて問うことができるし、問う必要がある。たとえば遠い国で戦争をしている人たちと私は何を共にしているのであろうか。それは、地球という空間でしかないのだろうか。それとも、地球という単純な空間設定ではない何かを私たちは共にしていると言えるのだろうか。目の前にいない他者との間でも私たちは何かを共にしているのではないだろうか。
そういった場面でわたしたちが何を共にしているかに答えを出すことはここでの目標ではないが、ただしそれは思想や価値観といったものではないことだけは付しておきたい。私たちは価値観を共にしているわけではないし、思想を共にしなければないわけでもない。そのような抽象的で形而上学的ともいえるものを共にすることの対象として掲げるのは、同一性の強制という危うさを抱えている。おそらく、私たちは目の前にいない他者とより具体的な何かを共にしている、あるいは共にし得るのではないだろうか。それはたとえば、文学であり、絵画であり、写真である。これを文化一般・芸術一般とまとめてしまうと、やはりまた抽象的な共生の強制へと連れ戻されてしまう。そうではなく、より具体的な何かを共生する存在として目の前にいない他者を考えることができないだろうか。(教養学部3年)(3)クリティークが持ってしまう暴力性のようなものを考えるとき、ポスト・クリティークの思想がめざしていることやその意義はとてもよくわかりますし、魅力を感じます。
最近、哲学対話の場に頻繁に参加しているのですが、そこでは「他人の言ったことに否定的な態度をとらない」ことがグラウンドルールとして設定されることがあります。参加する誰もが安心して「何を発言してもいい」と感じられる雰囲気をつくるためにはこのルールが必要なのだとされています。否定を禁じるというルールをあえて設定しないと、すべての人の「自由」は保証されないのだ、ということに私は軽く衝撃を受けました。
今回の講義を聞いて、「他人の言ったことに否定的な態度をとらない」というルールは、対話ないし議論の場におけるポスト・クリティーク的な実践のあり方の一例なのかもしれないと思います。たしかにすべての存在(アクター)を尊重し、あらゆるものが共生していくためには、否定を一旦やめてみる、クリティークを考え直すという段階がどうしても必要なのかもしれません。
気になっているのは「情動」についてで、情動に依拠して他者とつながっていくのなら、それは安易な「共感」に流れてしまわないのか? という疑問を持っています。なあなあで「わかるわかる」と言ってしまうのも怖いし、「共感」できない他者を簡単に排除してしまうのではないかという懸念もあります。「情動」は一体どのようなものなのか、どうやってそれに依拠していくのか、を考えていくことがポスト・クリティークの実践のために不可欠であろうと思います。(文科三類2年)