2020年9月14日(月)15:00よりZoom上にて第6回石牟礼道子を読む会が開催された。参加者は、前島志保氏(東京大学)、張政遠氏(東京大学)、山田悠介氏(大東文化大学)、宇野瑞木氏(EAA特任研究員)、宮田晃碩氏(東京大学大学院総合文化研究科博士課程)、それから報告者の髙山花子(EAA特任研究員)の6名であった。発表は髙山が担当し、サブテクストは以下を選んだ。
サブテクスト
1.石牟礼道子「この世がみえるとは——谷川雁への手紙」(1964年9月執筆)、『石牟礼道子全集・不知火』第1巻、藤原書店、2004年、242-244頁。
2.石牟礼道子「高群逸枝との対話のために——まだ覚え書の「最後の人・ノート」から」(『無名通信』3号、1967年9月、および『無名通信』5号、1968年3月)、同上、290-299頁。
3.森元斎『国道3号線』第3章「炭鉱と村」、共和国、2020年、115-173頁。
引き続き第2部「神々の村」を読むにあたり、9/4(金)のEAAオンラインワークショップ「石牟礼道子の世界をひらく」を経た上で、わたしが改めて確認し、再考したかったのは、1970年代の石牟礼の執筆状況である。過日のワークショップでは、鈴木将久氏(東京大学)より、谷川雁の「原点が存在する」を補助線とする形で、谷川主導のサークル村へ石牟礼が参加し、表現者としてのきっかけを得たことが改めて指摘された。じっさい、石牟礼自身も、詩人になりたいと思い、谷川の所属する共産党に入ったことを述べているが、いっぽう、『苦海浄土』第2部「神々の村」の成立過程は、第1部と比べると錯綜しており、端的にいうと、第2部で言及される具体的な雑誌媒体は、『サークル村』ではなく『熊本風土記』である。発表では、サブテクストの読解から、石牟礼も谷川も共産党の「残党」と呼ばれ、かつ石牟礼は共産党だけでなく、サークル村からも「異物」であると感じていた1960年代当時の様子を確認し、また、谷川自身もサークル村から離れて大正行動隊を組織するように、水俣病や、安保闘争、労働争議など、激しく移り変わる社会情勢にともなって、石牟礼だけでなく、谷川もまた新たな共同体ないし集団をもとめて、試行錯誤を繰り返し、大きく変化をしていたことを確認した。そして、第2部が掲載されていた『辺境』には上野英信と森崎和江も頻繁に寄稿をしていたこともみた上で、第2章「神々の村」に描かれる理想の共同体と個人のありようを探る石牟礼自身の葛藤が、当時の共産党と文学の関係から考察できるのではないか、と結んだ。
ブレインストーミング的な短い報告であったが、参加者からは、渡辺京二との出会いの大きさの指摘や、谷川との差異については「故郷」との関わり方に溝があったのではないか、というコメントがあった。そして、初期の文学活動の中心であった短歌創作については「詠嘆」の切り捨てを試みながらも、1970年代から1980年代にかけて天籟塾とのかかわりから俳句を作っていた状況が話題に上り、最終的に谷川が「村」と重ねる形で読解した宮沢賢治文学と石牟礼との関係が議論された。
単に複数の異なる性質のテクストが組み合わせられているという意味には全くとどまらない、石牟礼自身の文学テクストの「声」の多重性の根源に迫ることが、大きな課題として浮上したといえるだろう。また、石牟礼にとって「詩」を作ることがどのような文学的営為であったのかを、『苦海浄土』以外のテクストとともに考える必要性も明らかになったといえるだろう。
髙山花子(EAA特任研究員)