このコラムを始めるに当たって、「場を共にして学ぶことの悦びをEAAがその名に掲げる「書院」の理想につなげる」のが執筆の目的であると言いました。書院の理想とは、大学で学ぶことの悦びを具体的な身体を伴った生活の域にまで高めることです。学問の悦びは必ずしも大学という場に限定されるものではないでしょう。しかし、社会の中に制度として位置づけられた大学においてそれが存分に表現されることの意義は、いくら強調しても強調しすぎることはありません。わたしたちはこの世界に生を受けた存在として、その生をよりよいものにしたいと願っていますし、そのために世界がよりよいものであって欲しいと希求しているはずです。だからこそ、社会が共同でよきものに向かう悦びを育むことが望ましいですし、そうした社会的営みの具体的表現として、学ぶことの悦びのための制度として大学を設け、それを維持していくことによってこそ、わたしたちひとりひとりの生活が幸福へ向かう希望が見失われることなく保たれることになります。
大学がそのような希望の灯火として存在し続けるためには、社会がその存在を共同で守り支え続ける必要がありますし、同時に大学も自ら領域を設定してその中に自足することを特権化してはならないと思います。大学における学問の悦びは、大学が内外を通じた無限に広がる多様な世界へと開かれていることによって可能になるはずです。EAAが三大ミッションの一つとして、研究、教育と並んで社会連携を掲げているのはこうした考えの表れです。もちろん、研究と教育においても、わたしたちは国際的な人的交流をベースとしてそれらを推進することを所与の条件に定めており、象牙の塔に閉じこもってひたすら書籍の中に埋もれるような研究とはむしろ対極において活動しています。それはひとえに、わたしたちが新しい人として共に成長し、よりよき世界に向かって想像をひろげていくためです。
さて、春学期の正規課程も終わり夏休みを迎え、EAAの日常にもいくつかの悦ばしい出来事が生まれています。先日紹介した北京大学からの交換留学生との「駒場散歩」もその一つですし、秋入学のユース生からめでたく初めての修了生が生まれ、その修了式も行われました。また、8月1日には、三重県立四日市高校から24名の生徒さんがEAAを訪れてくださり、酷暑の中でしたが、ひとときの楽しい交流の機会をもつことができました。これはユース生の中に卒業生がいたからこそ実現したものです。別の記事ではその森要さんからのレポートがありますので、詳細はそちらでご覧ください。
四日市高校の生徒さんたちとは「なぜ大学に行くのだろう?」という問いについていっしょに考えてみました。わたしならこの問いにどう答えるのかと逆に問われてわたしが咄嗟に申し上げたのは、「大学では権利上すべてのことにアプローチすることが許されているから」ということです。もちろん、ひとりの知性には限界があります。しかし、学問は本質的に掛け値なく「すべてのこと」に対する問いのポテンシャルを有しているはずですし、そうした学問が営まれる大学という場は自ずとすべてに向かって開かれているということになります。Universityの語源となったラテン語の「universitas」はまさに「全」を意味していました。儒学の基本文献である「四書」の第一は『大学』ですが、その中では人が鍛錬する善なる人格の行き着くところは「天下」、すなわち世界の全体でした。したがって、洋の東西を問わず、大学とは「すべて」に通じているのです。
ただし、「すべての世界」、「世界のすべて」について、わたしたちはもう少し考えをアップデートしなければならないかも知れません。「uni-」は単一であることを表しますが、最近の宇宙論は、宇宙は複数存在しているらしいことを明らかにしています。つまり、universeではなく、「multi-verse」であるというのです。そうすると、大学がなおもすべてのことに通じるポテンシャルをもっているのであれば、それはある単一の何かに統御されるのではなく、複数性を共存させているのでなければなりません。そのためには、大学は尚のこと、外に向かって開かれて複数性のネットワークの中に位置づけられることが必要です。
EAAは組織としてはあまりにも小さい、生まれたばかりのものですが、このような複数性の世界をネットワーク化するためのダイナモのような役割を果たしたいと思います。
熱心な高校生の皆さんと対話を進めながら、思わずこのようなことまで想像を広げることができました。皆さんとはこれからの長い人生のどこかでまたお目にかかれることを楽しみにしています。
石井剛(EAA副院長/総合文化研究科)