EAAが目指しているのは、新しい学問の創設です。しかし、「学問」とはいったい何でしょうか。EAAがその名を獲得したのは2019年1月のキャンベラにおいてでした。オーストラリア国立大学(ANU)で行われたWinter Instituteには、後に初代院長となる羽田正さんを中心として、中島隆博さん、北京大学/ニューヨーク大学の張旭東さんの3名が集まっていました。この3名こそは、東京大学と北京大学との間に「特別な関係」を築くべきだという両大学トップに共通の思いを実現した立役者でした(EAA設立に至るものがたりについては『駒場の70年 1949−2020』の中で書きましたのでご覧ください)。そこにわたしも加わって、来るべきジョイントプログラムを具体的に構想する中で、東アジア藝文書院(东亚艺文书院、East Asian Academy for New Liberal Arts)という名称が固まったのです。このキャンベラ滞在で思い出されることはいくつもありますが、その中で、コーヒーブレイクの時に廊下で立ち話をしていたときにある教員がポツリと言ったことばがわたしには忘れられません——「わたしはresearcherであるよりscholarでありたいと最近思っているのです」。
研究者であることと学者であること、そして研究と学問とを別のものであると考えることは、今になって振り返ると、EAAが目指すべき新しい学問を方向づけるのに役立っています。とりわけ、キャンベラにいるときにはそこまで具体的に想像をめぐらせることのなかった「書院」にとって重要な区別です。
いわゆる文系と言われる学問において、専ら扱われるのは自然言語です。学問の近代化と細分化の中で、自然言語だけで研究の全過程が完結するのが文系、とりわけ人文学の特徴であると言えるでしょう。人文学はそれゆえに「科学」とは異なるとみなされ、また、「科学」的であらんがために数理モデルなどを部分的に導入することが試みられます。視点を変えて言うと、人文学とは、学問の専門化(つまり「分科の学」としての科学化)が浸透していない残余の部分であるとすら言ってよいかも知れません。それは自然言語で行われている以上、あたかも専門外の人でも参入可能であるかのような相貌を呈しています。もちろん現実はそのように甘いものではなく、大学院入学から博士学位を取得するまでには十年以上かかることも珍しくはありません。その長い修行の過程では、言語の使い方に関する規律=訓練が徹底されなければなりません。それは言語的に説明可能な規範である以上に、心身両面において内面化された「習い」となります。学位取得までの長大な時間はそういう習いを身につけるために費やされると言えるでしょう。ということは、自然言語だけで行われる人文学の堅実な専門性を支えているのは、実のところ身体化された非言語的技能(スキル)であり、内面的に馴化されたある種の身振りであるとも言えるかもしれません。そのように考えると、人文学研究は徹底して自然言語の使用に拘りながら、一方では、その基礎として非言語的な技法(アート)を厳しく求めているのです。
わたしたちが目指す書院においては、この非言語的なアートの意味を最大限に、かつ批判的に、表象化する必要があるとわたしは考えています。しかし、それは必ずしも「分科の学」の残余としての人文学をより専門的に研ぎ澄まそうとすることではありません。このような「アート」を、自然言語と同じように、誰もが使用し、依拠している人間活動の基本要素として再現し、賦活化していくべきであると考えるのです。なぜなら、残余の部分こそは、あらゆるスキルの専門性の異なりを超えて、わたしたち人間が誰でも共有している「人間たる所以」であると言えるからです。言語的行為もまた、深く非言語的な身体の習いによって制御されているのであり、こうした身体的営為の総体を「アート」と呼ぶことは、artを古代ギリシャに遡った時に見出されるtechnēという語においても、漢字の「藝」がもともと六藝(礼楽射御書数)の諸技芸であったという歴史に照らしても不適切ではないでしょう。
もう一度研究と学問のちがいという問いに立ち返ると、研究とは、科学的に遂行される専門的技巧のことを指すのに対し、学問とは、研究をうちに含みながら、それを取り去った後に現れる残余としての自然言語と身体のアートを総体として名指す概念であるとわたしには思われます。どんなに科学的に高度化した研究であっても自然言語による記述や説明を逃れることはできないという事実が示すように、自然言語は、すべての研究を支える最も堅固な土台であるにちがいありません。そしてそのような自然言語は、実は、高度な身体的規律によって制御されているのであり、言語と身体は切り離すことのできない、人間知性の根本です。
にわかに世界情勢が悪い方向に傾き始めた2022年最初の3ヶ月でした。わたしたちは技術的な方法やデータ的方法だけに頼ってこの現状を打開し、事態を好転させることができるでしょうか。それはわたしたちが人間であるかぎり不可能だとわたしは思います。人間はことばを有することによって世界と向き合い、世界を構築していく動物です。したがって、技術的・データ的な解決を望めないことは人間であることの限界であると同時に、現状をよい方向に転換するための唯一の希望でもあるはずです。そして、それが希望であるということは、とりもなおさず、わたしたちが言語を、アートを駆使する動物だからにほかなりません。
文系不要論のような意見がひとときメディアをにぎわせましたが、それがまちがっていることはもはや自明でしょう。世界を救うことができるものは何かという問いへの答えとして、言語以上に強力なものは存在しないはずです。その言語を研ぎ澄まし、言語を用いる身体を養うこと、つまり、「アート=藝」の弛みない鍛錬を続けること、その先にこそ希望は見出されるにちがいありません。
東アジア藝文書院が「藝文」を掲げているのは、かかる意味での学問を希求しているからであり、「書院」とはつまるところ、かかる意味での学問を探究する場の謂にほかならないのです。
石井剛(EAA副院長/総合文化研究科)