京論壇という息の長い活動をつづけるサークルに招かれて、その成果発表会でコメンテーターをしてきました。わたしがコメントを依頼されたのは、「権力とディスコース」に関する研究発表に対してでした。学生さんの議論はディスコースを生み出す権力、したがって自分たちから外在的であるがゆえに、往々にして自分たちでは制御できない、ともすれば抑圧的ですらある権力のほうに集中していたようでしたが、わたしはディスコースそのものが不可避的に内包する権力(power)について考えるべきではないかと思いましたので、少しアクロバティックに話題をずらして話を展開してみました。
『老子』の「名可名,非常名」(名が名づけられるならば、それは常なる名ではない)はあまりにも有名です。これは結局のところ、名指すものと名指されるものの間に埋めがたいギャップがあることを示しています。一方、孔子は、これもまた有名ですが、「必也正名乎!」(必ずや名を正すことだよ!)と述べて、両者の乖離が甚だしくなったときには「名を正す」ことが必要であるのだと強調しました。孔子において、「正名」とは政治の始まるべきポイントであり、したがって、名に随伴する「ずれ」は政治の条件にほかならず、同時に、そこには権力(power)が生じる隙が提供されることになります。ここで大事だと思われるのは、かかる「ずれ」は権力をある種の暴力として現前させる可能性をもたらすと同時に、いや、それ以上に、わたしたち自身に力を与える(empower)チャンスであるともとらえられるということです。少なくとも、「正名」には、そうした政治の可能性がかけられています。
そうすると、わたしたちは、届きたいと願いながらも届くことのかなわない彼岸を求めて互いに常ならぬ名を駆使しながらコミュニケートすることを通じて、実は、互いに力を与えあっているということになります。そこでいう力とはとりもなおさず、名を与えることによって自らと世界を別様のものへと変成しようとする言語の想像力のことにほかなりません。
京論壇の学生さんたちは、東大と北京大学の双方から集まり、共通のテーマについて徹底的な議論を交わすことを活動の中核に据えているのだそうですが、このことから言えるのは、彼らのそうした徹底的な議論そのものが、実は新たなディスコースを形成するために相互に力を与えあっている、いや、共にその力を生み育むプロセスであるということだと思います。そうした経験を振り返ったときに、自らと自らを取り巻く世界のありようが少し変わって見えるようになっていれば、それは、言語を共に鍛え上げるプロセスの中で遂げられた成長の証であるにちがいありません。わたしたちの未来はそうして少しず変化を繰り返しながら、よりよい方向へと導かれていくはずですし、言語への信に頼ったコミュニケーションは本来そうであるべきものだと思います。ディスコースは与えられるものではなく、わたしたち自身が生み出していくものなのです。
実は、東アジア藝文書院が目指す学問のあり方もこれに通じています。中島さんはEAAの発足以来、しばしば「社会的想像力」という言葉に言及します。EAAは概念の吟味と組み替えを通じて、社会的想像力を豊かにしていくのだというのです。それが可能になるのは、名が有する必然的なずれ(ジャック・デリダの言う「差延」でしょう)、名と名指されるものとの間にある空隙において、わたしたちが善たろうとする努力を、人と共にあることの悦びをもって継続する限りにおいてだと思います。それは、学問の名において初めて可能となるとわたしは考えています。逆に言うと、そのような努力と悦びの繰り返しこそが、学問の名で呼ばれるべき何かであるとわたしは思います。EAAが書院を名乗っているのは、そうした意味での学問をする場を生み続けることを目指しているからです。
京論壇の皆さんの集まりはすばらしいものになりました。長引くCOVIDパンデミックによって、互いに会って話す機会は完全に失われ、すべてがオンラインで遂行されたのですが、もしかするとそのせいで生まれた距離のもどかしさが、彼らをしてより大きく成長する力(driving force)となったのかも知れません。きっとそれは、未来に本当の対面を果たす日に対する渇望に支えられていたのでしょう。まだ粗さと幼さを隠すことのできない若い皆さんの明日を心から祝福したいと思います。そしてこれは同時にEAAの未来に対する祝福であり、さらに、学問を通じて紡がれるはずの未来のよりよい世界に対する祝福でもあるのです。
石井剛(EAA副院長/総合文化研究科)