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2024.08.28

悦びの記#28(2024年8月27日)

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2024822日から24日までの3日間、高雄の中山大学で「天下秩序と共生哲学」と題するイベントが行われました。今回の「悦びの記」は、このイベントへの参加報告を兼ねて執筆したいと思います。

会議を主催したのは、中山大学文学院の頼錫三さんとマーク・マッコーナギーさんが進める「トランスカルチュラル漢学の島」プロジェクトです。2021年以来、彼らは「共生哲学」を強力に推進し、わたしたちもそれに当初から深く関わってきたことはこれまでにもことあるごとに紹介してきたとおりです。今回の会議については、昨年11月に高雄を訪れた際に頼さんから計画を聞かされていましたので、彼らはずいぶん早くから周到な準備をしていたことになります。また今回は、バーグルエン研究所中国センターの宋冰さんも加わったことによって、329日と30日に駒場で行った共生会議の再演というかたちになったことも特筆すべきです。三日目の午前中には、「東京—高雄—北京三地「共生」交流フォーラム」と題して、東アジア藝文書院、中山大学、バーグルエン中国センターの互動(中国語ですが、漢字ですので日本語としてもそのまま使えますね)を今後どのように思想運動として深め、広げていくかについて意見交換が行われました。

頼錫三さんは、「共生」という概念を人類があまねく認める価値観にまで引き上げたいという希望を力強く語っていました。このほど刊行されたばかりの『裂け目に世界をひらく 「共生」を問う 東大リベラルアーツ講義』(東京大学東アジア藝文書院編、東京大学出版会、2024年)の中でも書いたとおり、「共生」とは、「結局のところ、わたしたちにとってよりよき生のありかたそのものであるにちがいありません」(250ページ)。かつて日本が大東亜共栄圏なる狂った計画に突き進んでいたときに「共生同死」「同生共死」などの標語が各地の傀儡政権で造られたことは和光大学の上野隆生さんが指摘するとおりで、同書の中では中島隆博さんがそれを引用しています(183ページ)。沖縄でも「軍官民共生共死」なるスローガンの下で集団自決が正当化されたことはよく知られています(関連する朝日新聞記事はこちら)。そして、いまでも共生共死の思想は日本の言説の中で生き続けています。それはいったいなぜなのでしょうか。少なくとも、「共生」が「よりよき生のありかた」の必然的な帰結であるのならば、かつて大いに称揚された集団的な生と死の強制がよりよき生のありかたでないことは言うまでもありません。しかし一方で、人として生まれたわたしたちが必ず迎えることになるはずの「死」について、考えずにはおれないというのもまた事実であるようです。

折しもEAAでは、國分功一郎さんがデリダ没後20周年記念シンポジウムを企画中であり、その趣旨文には、かつてデリダが「Learning to live should mean learning to die」と言ったのだということが最初に書かれています。まるで『葉隠』のような勇ましい言葉で、わたしはたじろがずにいられません。モンテーニュが「哲学を学ぶのは死の準備である」という意味のことを語っていたという話題についても、今回の会期中に食事をしながらわたしに語ってくれた人がいました。ええ、たしかにそうでしょう。ソクラテスの死が哲学という運動の始まりであるとプラトンが解釈したときから、それはきっとそうだったのです。そして、そうであればこそ、「共生共死」というかけ声の下で、数えきれぬほどの尊い命を死に追いやった日本近代の圧倒的におぞましい暴力について、わたしたちは、それらをすでに過去のものであると忘却するのではなく、未来の問題としてもっと理解を深め、問い質し、思想化していかなければならないはずです。

今回印象的だったのは、楊儒賓さんが東アジアの人々は、だれしも近代の歴史の中でトラウマを抱え、悲哀の記憶があると述べたことでした。それは、白永瑞さんが「核心現場」という概念で主題化してきた思想課題に直結しています。思えばわたしは1990年代に歴史と記憶をめぐって東アジアの知識人たちが国や言語の壁を越えて熱い議論を交わしていたのを仰ぎ見ながら研究の世界に入りました。この運動を中心で支えていたのは、白永瑞さんであり、楊儒賓さんが敬愛する溝口雄三であり、春にEAAに滞在してくださった酒井直樹さんでした。今回いっしょに参加した鈴木将久さんはわたしと同世代の研究者として同じ経験を共有するだけでなく、第二世代としてこの運動をアジア大の知的協働として継承するように活躍していますし、張政遠さんは、災害の記憶と物語りという角度から、この運動に新しい視点を加えています。そして、いま「共生」というテーマが、新しい地域的な緊張と地球的な危機の現実のもとで再びこうして思想課題になろうとしています。

「天下」というこの会議のもうひとつの主題についても触れなければなりません。世界政府の未来の必要性について真正面から取り上げる「天下」という議論には、膨大なエネルギーに頼らねば維持できない高度なテクノロジーによってもたらされるであろう世界のシステム化にどう対応するべきかという問いが含まれています。まさに、「集置」としての技術の本質が、わたしたちのよりよき生の想像を根本的に条件づけているのです。そしてそれは、環境危機や国際紛争などのような複合危機と相俟って、終末論的な想像へとわたしたちを誘っています。これはたいへん難しい課題です。ここではどうしても「死」の問題を避けることができないからです。今回わたしが論じたのは譚嗣同の『仁学』でしたが、その中では来るべき天下は、言わば「終末なき終末論」として想像されています。そこにはもちろんのこと、易や仏教から導かれる循環的変化の世界観が作用しています。しかし、それは断じて「共死」の思想ではないはずです。

では、何か?

頼さんは、何度となくわたしが中国語で近年繰り返し論じている「文の場」に言及してくれました。『私たちは世界の「悪」にどう立ち向かうか』のなかで「宇宙的希望」と申し上げたのは(356ページ)、これに関わる問題であり、同時に、いまのわたしにとってまだまだ解きがたい問題でもあります。田辺明生さんが『私たちはどのような世界を想像すべきか』のなかで語ってくださったこと(第一章)がひとつの導き手になっていることにも付言しておきます。

 人類的な課題、地球的な課題に東アジアから応じていくこと。それは、東アジアの近代において、人の手によって繰り広げられてきた殺戮と蹂躙の記憶の上に行われるべきことであり、そうすることによって、東アジアで共に生きるわたしたちの希望がひらかれていくべきであるとわたしは思います。そしてそれは単に欲すべき未来であるだけでなく、可能な未来でもあることは、わたしたちがすでに「文の場」に生きているというこの事実だけでじゅうぶんに示されているのだとわたしは信じています。

奥から手前に向かって、楊儒賓さん、白永瑞さん、宋冰さん、マーク・マッコーナギーさん、頼錫三さん

石井剛(EAA院長/総合文化研究科)