SDGsとしてのリベラルアーツを実践する
3月ごろからでしょうか、毎日猛烈に忙しい日々が続いています。授業をすること、原稿を書くことの二つが日常習いとする仕事ですが、ありがたいことにこれらの量がたいへん増えています。そしてこれらはいずれも過去5年間に東アジア藝文書院で活動し続けてきたおかげです。つまり、わたしたちの活動が学外で、日本国内でも国際的にも少しずつ知られるようになってきたことがとても大きいですし、わたし自身も、EAAの活動によって研究者としての視野を大きく広げてもらっているという実感があります。わたしたちの活動は社会的な寄付を受けて行われているものですが、志ある団体や個人と共に夢を共有することによって、わたしたちの学問も前に進んでいく、そして志の輪が国際的に広がっていく、そうした好循環が形成されつつあるのを一人の大学人(研究者、教育者、大学組織構成員)として実感している、というのがいまのわたしの状況です。猛烈な忙しさと言うからには、こうした日々は決して容易ではありません。しかし、ここに悦びがあることはたしかです。
いま、「一人の大学人」ということばで、研究者であり、教育者であり、大学という組織の構成員であるという3要素を括ったのですが、同時に社会人の一人としては、大学人ではない人から区別されるという意味で、わたしは大学人というパーソナリティを大学の外に向かって演じていることにもなります。そして結局のところ、大学人であることの価値が測られるのは、この外側との関係において成り立つ部分においてであるはずです。それは大学が資本主義経済の原理によって支えられているという単純かつ明白な事実によってそうなのです。わたしたちは、社会の中で大学人とはいかなる存在であるのかについて、醒めた目で具体的なイメージを以て日々を過ごさなければなりませんし、社会からの経済的な期待に断じて答えていかなければならないのです。
わたしたちは「東アジアからのリベラルアーツ」を標榜しています。その社会における役割は、東アジアをベースにして世界をよりよいものへと変革していくための智慧としてリベラルアーツを育てていくことです。リベラルアーツとは、究極のところ智慧に対する愛(哲学ですね!)を一つの態度として生活していくことであるとわたしは考えています。これはなにがしかの「答え」を希求する態度とは少し異なっています。
生活の中ではしばしば態度を決定しなければならない場面に追い込まれます。しかし、あらかじめその決断が正しいかどうかわたしたちは判断できません。ある決断の適否はその後の長い生活の中で明らかになっていきますし、わたしたちは前の決断を少しずつ修正しながら、生活を破綻させないように進んでいきます。「答え」とは実はこの決断のことです。決断がそれ以外のすべての可能性を永遠に破棄してしまうものであるとは限らないように、「答え」はそれ以外の可能性を排除するものではありません。リベラルアーツが智慧への愛を態度とする生活であるというのは、あるクリティカル・モメントにおいて下した「答え」が本当にそれでよいのかを検証し問いつづけることを意味します。
産業界の方々からは人文学的な知見が欲しいというありがたいリクエストをしばしば頂戴します。しかし、もしそれが工学的な解、つまり、ある課題に対する「答え」を求めるという意味であるならば、それはわたしたちが求めるリベラルアーツとは異なります。わたしたちは、「答え」を求めるのではなく、その「答え」が本当にそれでよいのかを問い質し続けることを使命としています。これがエンジニアリング的知性と相伴って社会を構成することによって、人類は取り返しのつかない悪や失敗を犯すことを避けながら、前に進んでいくことができるはずです。問いつづけることが許されない社会は持続可能性を失います。リベラルアーツ、いや智慧への愛としての哲学の存在意義は、社会の持続可能性を根本的に下支えする駆動力にほかなりません。したがってまた、SDGs17項目を束ねるのは、この問いの持続可能性なのです。わたしはリベラルアーツの名において、「問いつづけること」を18番目のゴールに据えるのがよいと考えています。
人類大に取り返しのつかない悪や失敗をわたしたちに避けることができるのか、と皆さんは思われるでしょう。それはわからないし難しいと言わざるを得ません。だからこそ人類大なのです。しかし、現実に人類大の危機がいま地球を覆っていることを思えば、不可能だと言ってあきらめるわけにはいきません。かと言って、身近な小さなところから実践しましょう!と声を大にして叫んだところでそれはかえってニヒリズムと冷笑主義の温床にすらなりかねません。わたしたち東アジア藝文書院の活動は、東京大学が行う活動として、グローバルに事業を展開する企業の支援を受け、国際的なネットワークを張りめぐらしています。こうした活動は、わたしたち以外にも世界中に数多くあるでしょう。それらがすべて、本気で人類大の危機に向き合うことが必要であり、それは単にソリューションを求めるだけではなく、問いつづけることの中から智慧を育むことを同時に要求しているのだとわたしは信じます。なぜなら、あきらめることなく不断に育まれる智慧は、不幸にして起こってしまった災厄からもう一度復興を始めるときの希望の指針になるにちがいないからです。
わたしたちは、産業界とアカデミアがこのような智慧を共に養っていくことにひと筋の希望を見出したいと思っています。そして、その中に将来の世界を担う多感な若い方々が参与していることがその希望を確たるものにしていると思います。この歩みはまだ始まったばかりであり、道は世界の各方に向かって広がっていかなければなりません。
つい先日も、わたしたちのプログラムから巣立っていった北京大学出身の学生さんがふらりとオフィスを訪ねてくれました。現在はハーヴァード大学の修士課程で学んでいます。お土産に持ってきてくれたのは、この記事のアイコンに示されているトートバッグです。ハーヴァード書店オリジナルトートバッグです。同じ日の夕方、張政遠さんと共に福島を視察してきたペンシルバニア州立大学のニコラス・ド・ウォレンさんがこのトートバッグを指して、「これはなつかしい!」と喜んでいました。かつてハーヴァードで学んでいたのだそうです。こうしたふとした偶然がここ駒場で日常的に起こっていることを目撃するたびに、わたしは、まだまだわたしたちにはチャンスがあると思います。この感覚をより多くの人々と共有し、人類の希望をつないでいきたいものです。
朋あり遠方より来たる、また楽しからずや!
石井剛(EAA院長/総合文化研究科)