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2024.05.02

悦びの記#25(2024年4月28日)

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「変化」について

4月は瞬く間に過ぎていこうとしています。開花の遅れた桜が若葉と混在しながら咲いていたと思えば、路傍のハナミズキもいつの間にか盛りを終え、いまは紅白のツツジが近所の公園を覆い尽くしています。季節の移り変わりは諸行無常のはかなさを思わせるものです。万物は変わりゆく。それは宇宙の自然であり、そこに驚くべきものは何もないのかもしれません。

ところで、かつてこのブログ欄のリレーコラム「話す/離す/花す」(202227日の若澤佑典さんのエッセイ「断片の詩学、反響する声、高揚の効用」のあと更新されないまま今日に至っています)の第9回で、わたしは変化を可能にするスペースについて書きました。その中でも明らかにしているように、東アジア藝文書院こそは、そのようなスペースであり、奇妙な人からクリスマスプレゼントとしてわたしに与えられた「暴力なしに世界の変化を許すスペースはどのようなものなのか?」という問いに対しては、EAAがまがりなりにも6年目に入ったことで、わたしなりの答えを示し得たと自負しています。しかし、変化こそが宇宙の自然であるのなら、世界の変化を許すスペースなるものにそもそも意味はあるのでしょうか。意味があるとしたらそこで「変化」とは何を指しているのでしょうか。

変化は周易(易経)の思想としてしばしば中国哲学の根本的な宇宙観であると理解されますが、一方で、中国哲学では経と権の区別を明確にする姿勢が顕著です。経とは変化しない常なるものの総称です。しかし、時として重たかったものが軽くなり、軽かったものが重たくなるという常識の変化が生じることがあります。清代の哲学者戴震は、そのような事態に気づくことなくこれまでの常識に固執して軽重の測り方をまちがえてしまうと天下こぞってその禍を受け救いようがなくなると警鐘を鳴らし、権とはそのような変化に適切に対応することだと述べています。

戴震自身は権の正しい発揮のためにも理性を研ぎ澄ませることが必要であると、いかにも啓蒙思想家らしい主張を展開しますが、彼が依拠した孟子の思想にしたがえば、変化に対する適切な対応はしばしば機敏な瞬時の判断を伴います。したがって、戴震がいかに理性の信奉者であったとしても、権の適切な発動には数学的な論理からこぼれ落ちてしまわざるをえない要素が期待されています。それは生活経験の中で長い時間をかけて鍛えられていく、ある種の知性のあり方です。そのような知性はむしろ襲いかかる変化の勢いを押しとどめる力として作用することもありえますので、権は単なる順応主義ではありません。諸行無常の諦念は時として、極めて暴力的に訪れる変化の勢いに抗うことなく順応することを正当化しながら人に強制する、それ自体かなり暴力的なふるまいとして現れることがありますから、よほどわたしたちは注意しなければなりません。

変化への対応が適切であるかどうかの基準は倫理的に(つまり人同士の関係において)求められざるを得ません。だからこそ適切な権の発動は究極的には聖人においてしか可能ではないのです。しかし、だからと言ってただ手をこまねいているばかりではいられない変化の勢いというのは確かにあります。わたしたちはこの状況下で普遍的な倫理をいかにして求めていくことができるでしょうか。勢いに対するさまざまな反応の可能性を吟味しつつ、同時に勢いの抗いがたい暴力を宥めていくような智慧によって、勢い自体を別の方向へと導いていく権能こそが、「変化を可能にするスペース」には求められているのだと思いますし、わたしたちが求める「変化」とは、勢いの中から希望を見出し、そこへ向かって行動していくためのポテンシャルを指しているのだろうと思います。

今学期の学術フロンティア講義は「30年後の世界へ——ポスト2050を希望に変える」をテーマに掲げています。気候変動、生物多様性危機、技術進歩に伴う人間性への問い直し、主権をめぐる国際紛争の激化など、多重危機(polycrisis)と呼ばれる状況を前に、わたしたちは急ぎながら時間をかけてその先の希望を見出していかなければなりません。2050年が気候変動対策のゴールにしばしば定められていますが、その先にわたしたち自身がどのような新しい世界を求め、いかなる幸せを見出していくのか、それがこの授業における問いです。受講者の多くにとって、2050年は人生の中でも広く社会的責任を具体的に追うべき時期に差しかかるころです(孔子は「50にして天命を知る」と言っていますね)。わたし自身はそのころにはもうこの世にいないか、いたとしても健康に生きている可能性は極めて乏しいのですが、だからこそ、次の世代の皆さんと共に、皆さんの次の世代の人々が平和に幸せを享受できるよう、いまから行動していきたいと思っています。

 

*サムネイル写真は駒場東大前駅から駒場キャンパスを眺めた風景です(202442日撮影)。キャンパスに残る雑木林はそこに集う生命の更新を繰り返しながら武蔵野の面影を今に伝えています。

 

石井剛(EAA院長/総合文化研究科)