3月27日の午前、満開の桜をくぐって四日市高校の1年生の皆さんがEAAを訪れてくれました。昨年8月に続く2回目の訪問です。今回は総勢40名(そして引率の先生1名)という大人数でのにぎやかな訪問となり、お迎えするわたしたちにとってもたいへん楽しいひとときになりました。この訪問が実現したのは、同校卒業のEAAユース生森要さんが熱心に橋渡しをしてくれたからです。これから大学に進もうと志しているお若い方々に「東アジアからの新しいリベラルアーツ」を知ってもらうことができるのは何よりもの悦びですし、そもそも学問とは年齢や専門を問わず共に楽しむものであることを多くの人に実感してもらいたいとわたしたちは願ってやみませんので、2度にわたる訪問は、悦びと楽しみ(『論語』学而篇の最初の2句はまさにこの二つを讃えていますね)を体現するものでした。実現のためにご尽力くださった四日市高校の先生方、そして、関心を持って駒場を訪れてくださったすべての高校生の皆さんに心からの感謝を申し上げます。
前回もそうでしたが、今回も森さんのはからいによって、四日市高校の卒業生やEAAユース生にもお手伝いいただき、高校生の皆さんと交流しながら、「教養」とは何かを共に考えるワークショップとなりました。わたしからは「かのようにの希望」という「お題」を提供して、ニヒリズムや相対主義に陥りかねない状況の中で、どうやってわたしたちはよりよい世界を求めていくことができるのかについて、皆さんに考えてもらいました。
四日市高校の皆さんが挙げてくれた意見は一つ一つがすばらしく、感性豊かな学問的想像力が具わっているすがたは頼もしいものでした。その中でも、学問が必ずしも社会を良い方向に導くとは限らないという意見や、それでも学問は社会を変えていくことができる、そして、「かのように」を通じて人はお互いを高め合っていくことができるのだ、というような、まさにわたしが言いたかったことを次々に自分のことばで表現してくれました。「わからない」という率直な意見もありました。そうです、わからないことは本当にわからないのです。わからないという気持ちを持つことが「わかったつもり」でいることよりもよほど尊いものであることは孔子もソクラテスも認めていますね。
そもそも学問とは教科書の中のことだけでないことはもちろん、研究室や実験室の中だけで完結するものですらなく、射程を広く取ると、学問は生活そのものであると言うべきです。少なくとも中国哲学の先人たちは確かにそのように教えてくれています。古代ギリシャにあっても同様であったにちがいありません。そして、生活は一人で成り立つものではなく、必ず誰かとの共同作業です。つまり、学問はつねに誰かと共に行われているのです。生活の中に学問を組み込み、ひいては生活そのものを学問であるととらえること、それがわたしたちが共によりよい人生と世界をつくっていくということの具体的な意味であるにちがいありません。難しいでしょうか?堅苦しいでしょうか?もしそうだとしたら、何かが誤っています。そして、誤りは皆さんの方にではなく、皆さんにそう思わせてしまう学問の側にあるのでしょう。なぜなら、学問の始まりと到達点は本来悦びであり楽しみであるはずだからです。
春です。
花ひらき若葉の芽吹く春です。
心地よい風を身体に受けながら、共にゆったりと歩んで参りましょう。
石井剛(EAA副院長/総合文化研究科)