昨日、EAAではユース生のなかで「東アジア教養学」プログラムの単位をすべて取得した学生さんに対する修了式を行いました。2020年度に発足したプログラムですが、幸いなことに毎年修了生が輩出し、秋卒業に合わせた開催もありますので、すでに4回目の挙行となりました。EAAの修了生はすでに各方面で活躍を始めており、その活躍の場も国際的です。わたしたちは学部1年生を主な対象として毎年「30年後の世界へ」を共通テーマとするオムニバス講義を開講していますが、修了、そして卒業を機に皆さんは「30年後の世界」を自らの足と手を使って構築されていくことになります。修了生の皆さんの晴れ晴れとした姿が輝いていたのはたいへん頼もしいことでした。
一方、わたしにとって同様に、いや、それ以上にうれしかったのは、修了資格こそ得なかったけれど3月に卒業することになっているユース生が修了式の場をいっしょに盛り上げてくれたことです。修了というのは、所定単位数を取得した証ということで、それがステイタスになることはまちがいありませんが、人生は決してステイタスの積み重ねによってなり立っているわけではありません。そして、「書院」が提供するのはまさにステイタスの陰に隠れた人生のエッセンスの部分です。ですので、こうして皆さんが集まってくれたことで、初めて修了式の場は、真に書院の集まりになりました。残念ながら直後に別の集会があったので一人一人とお話しするチャンスを逸してしまいましたので、この場で感謝したいと思います(オフィスに遊びに来てくれるともっとうれしいので、いつでもお待ちしております)。
さて、わたし自身の学生時代を思えば、修了生の皆さんのような晴れやかさとはまったく無縁のまま、心の定まらない茫洋とした中で人生を歩み始めました。それはリスキーだったのでしょうが不思議に不安はありませんでした。もちろん、その後に長いトンネルは続きます。30代半ばまではその中で何度もつまずきながら、時に人を傷つけてしまう失敗も経験してきました。立派な人生とはほど遠い泥臭い道のりです。そうした中でも何とかやってこられたのはなぜなのだろうと考えてみると、究極のところは人に行き当たります。その時々に出会ったさまざまな人に生かされながらどうにか歩いてきたということ以外に何もないと感じます。こうしてみると、人生にはきっと何も特別なことはありません。そういう「不過如此」の連なりの中からしかドラマは生まれてこないのでしょう。
早咲きの桜の陰では柳がみずみずしく芽吹いています。お若い方々それぞれの新しい出発を心からお祝いします。
(*サムネイル写真は、台南の旧市街地、安平の路地裏で出会った樹齢三百年を超えるガジュマル「樹王公」です。)
石井剛(EAA副院長/総合文化研究科)