このコラムは「悦びの記」というタイトルですが、これはもともと『論語』の最も有名な最初のフレーズ「学びて時にこれを習う、また悦ばしからずや」から取ったものです(もっとも原文では「悦」の字は「説」と記されていますね)。「書院」という場で学ぶことの本質的な悦びを、EAAにおける具体的な日々の営みの中からお伝えしたいというのが趣旨です。皆さんご存じの通り、このフレーズは「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」と続いていきますので、「学」と「朋」は必ず相伴い、そしてその結果、学問は「悦」たり「楽」たる集いの実践であると解されることになります。ですから、このコラムでお伝えすることは例外なく、誰かと共にあることによって彩られる書院的学問の一コマばかりです。そして、これこそが、洋の東西で古来営まれ続けてきた「哲学」(智慧の友情)の具体的なあらわれであり、したがってまたわたしたちが現在、「大学」という制度に依拠して行われている学問、それも「教養の学問」のあるべき日常を予示するものだと窃かに考えています。
さて、今回は2024年で最初のコラムとなりました。日本では元旦からたいへんな災害が襲い、多難な年初を迎えたことから、わたし自身なにか茫然とした無力感にあらがうことができないままでおりました。まして、海の向こうの世界各地では戦争や貧困、また苦しみを逃れて国境を越える人々の増加による社会負担など、問題が山積しています。そして、2023年は人類史上最も気温の高い一年(しかも記録を大きく塗り替えた一年)であったというニュースに触れると、この冬の東京の暖かさを喜ぶ気持ちには到底なれません。思えば、わたしたち人類はもうだいぶ前から文字通り「危機の時代」に入っているのであって、新年早々に日本の社会を襲った悲劇は、事実としては危機の中で生じる複合的な災害の一例にすぎなかったのかも知れません。
しかし、こうした危機のさなかにあるからこそ、わたしたちはきちっと希望のありかを見定めておかなければなりません。いや、と言うよりも生活の中に希望を見出していかなければなりません。つまり、「いま」を生きていることがそのまま未来を切り拓いているという事実に立ち返って日々を過ごすことです。それは学問においては「学びて時にこれを習う」積み重ねにほかなりません。「学び」は「朋が遠方より来たる」(この文型が無題文であることが重要です)という意外性と偶然性によって賦活されながら繰り返す日常の中にあります。この意味で、偶然の機縁によって実現した北京大学EAAプログラムの学生さんたちの訪問は希望にあふれるものでした。
2024年1月15日から17日の間に行われた交流活動の詳細については別途報告があると思いますのでそちらに譲ります。わたしとしては、今回は「Philosophy in Tokyo / Tokyo in Philosophy」と呼んでいる新しいプロジェクトの種子を蒔かせていただく機会となり、北京大学の皆さんが見事にこのわたしからのギフトに応じてくれたことがこの上なくうれしいできごとでした。このプロジェクトの「こころ」についてはまた別のところでいずれご紹介したいと思いますのでここでは述べません。しかし、初日のレクチャーと二日目のフィールド研修から三日目午前中の整理を経て、午後のプレゼンテーションにまで高めた、そのエネルギーとバイタリティーにはただただ舌を巻くばかりでした。まだ授業期間中ということもあって本学の学生さんが十分参加できず、とりわけグループワークに入れなかったのはとても残念でしたが、それでも数日を一緒に過ごしたという体験を何とかフルに活かして未来につなげてほしいと願います。
サムネイル写真には学生の皆さんと一緒に訪れた東京駅丸の内南口前のKITTEという複合施設から取った一枚を使いました。この施設にあるインターメディアテクは本学の総合研究博物館が運営するすばらしい博物館です。
石井剛(EAA院長/総合文化研究科)