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2023.10.31

往復書簡(5) ――工藤庸子先生への手紙――(山内久明)

東京大学東アジア藝文書院(EAA)では、世界文学ユニットの企画の一環で、大江健三郎氏がノーベル文学賞受賞時のスピーチの英訳をされたことでも知られる、駒場時代の同級生、英文学者の山内久明先生(東京大学名誉教授)と、仏文学者の工藤庸子先生(東京大学名誉教授)の往復書簡を、数回にわたって掲載いたします。
第1信 山内久明先生への手紙――(工藤庸子)
第2信 工藤庸子先生への手紙――(山内久明)
第3信 山内久明先生への手紙――(工藤庸子)
* 第4信 山内久明先生への手紙――(工藤庸子)

往復書簡(5)

工藤庸子さま

山内久明

 これまでに三度お便りを頂戴しながら、私からは一度しか返信ができておりません。何卒お赦しください。
 最新のお便りでは、913日の「お別れの会」のことに言及してくださり、深く感謝申し上げます。大江さんが現在と未来の幅広く層の厚い読者の心の中に生きつづけることが実感として共有された、感動的な機会となりました。会場では行き届いたお心遣いをいただき、本当に有難うございました。ご無沙汰し通しの蓮實重彦先生との再会の場をおつくりいただき、たいへん幸せでした。冒頭の島田雅彦氏のご挨拶の中で、大江さんを巻き込む壮大な歴史観に支えられた先鋭な言葉が、「眼ざめよ」と耳に突き刺さりました。1954年から成長していない私の幼児性を寛大にお受けとめいただき、恐縮に存じます。すべてに対して厚くお礼申し上げます。
 また、「ディーセント」「ディーセンシー」に関連する舌足らずな拙文をご紹介いただき、恐縮に存じます。ディケンズとの関連や、同じ言葉のフランス語のニュアンスについてもご教示いただき、感謝この上もございません。大江さんはノーベル賞受賞記念講演の中で、渡邊一夫先生の「ユマニスト」と等価のものとして、ジョージ・オーウェル由来の「ディーセント」「ディーセンシー」という言葉を引き合いにだしました。オーウェルはその言葉をどのような状況の中で使ったか。元来イギリス中産階級の行動の規範となっていたこの言葉が、オーウェルが委嘱されて取材したイングランド北部の労働者階級の意識と行動の中で実現されていたことが、オーウェルにとっては新鮮な発見でした。産業革命がもたらした繁栄の代償としてイギリスの社会に顕在化した階級構造の矛盾を直視し、社会正義を追求したオーウェルの価値観を表す言葉の一つが「ディーセント」「ディーセンシー」でした。重要な言葉について再考の機会をおつくりいただき、感謝は尽きません。
 ノースロップ・フライに関連して洞察深い数々のご指摘を有難うございます。フライの主著であり、20世紀後半における重要な批評理論の一つである『批評の解剖』(1957)は、フライ自身が言うところによると、『恐ろしい均衡』(1947)に結実するウィリアム・ブレイクの詩を読む作業から生まれました。ブレイク研究から啓示を受け、フライが古典から現代にいたるすべての文学作品に通ずるmythos「神話素」を枠組みとして構築した批評理論は、フライの想像力の産物であったと言えます。
 「嬰児は揺り籠の中で殺した方がよい、未遂の欲望を育むよりも」(大意)というブレイクの『天国と地獄の結婚』からとられた一節は『個人的な体験』(1963)の通奏低音となっています。20年後に発表された『新しい人よ眼ざめよ』(1983)においては、ブレイクの数々の詩句が連作短篇の各篇において作品の枠組みとなり、大江作品における「神話素」の働きをしています。
 大江さんは一体いつブレイクを読み始めたのか。それについて大江さんから聞いたことはありません。『新しい人よ眼ざめよ』の第二話「怒りの大気に嬰児は立ち上がって」は、ブレイクの『四つのゾア』からの引用に関する考察から始まり、その始めの方で、「人間は労役しなければならず、悲しまねばならず、そして学ばねばならず、忘れねばならず、帰ってゆかなければならず、/そこからやって来た暗い谷へと、労役をまた新しく始めるために」という一節を、「大学の教養学部の、最初の学年の時」「旧一高以来の図書館で」「僕の坐った席のとなりに」「置かれていた」「固表紙の大判の本で」「見出した」とあります。語り手は、主が不在の隣の席に置かれた本から先の詩句を読み、「いま新しく展開したばかりの自分の生について、決定的な予言をあたえられたように」感じます。やがて、「教授あるいは助教授とおぼしい人物」が隣の席に戻って来ます。時を経て、ブレイクの全詩集を買い上記の引用について確認する語り手は、ある深夜、あの「中年の教授あるいは助教授として、どんな学者の名が思いあたるかと」「駒場で同級であり英文科の大学院に進んで、当時女子大の講師をしていたY君に電話」します。作者と「Y君」との電話での会話に関して、自身の記憶を当てにすることができません。『新しい人よ眼ざめよ』全体が、みごとに構築された、私小説に扮した非私小説であると考える私は、「教授あるいは助教授」は架空の人物ではないか、と思ったこともありました。しかし、『大江健三郎小説2』(1996)、「月報19967月」の「私という小説家の作り方 二章 ぢやあ、よろしい、僕は地獄に行かう」の6ページに、「駒場の教養学部図書館で、ウィリアム・ブレイクの預言詩(プロフェシー)の一節を、隣の席に座った研究者の本を盗み見て読みとった」という証言があります。結局、その「研究者」が誰であり得たかは別として、大江さんのブレイク体験が1954年に遡ることは、動かぬ事実となります。
 私は1962年秋から留学したコロンビア大学大学院につづいて、翌年秋からトロント大学大学院に移りました。日本で院生であった頃に私は、自ら発見したコールリッジの膨大な手記原稿を編集刊行中で後にコールリッジ全集の編集主幹となるキャスリーン・コウバーン先生の元で学びたいと念願し、それが叶いました。トロントにはコウバーン先生に加えて、ノースロップ・フライがいる、メディア論で有名なマックルーハンもいる、そして英米加の学統を束ねた英文学研究の層の厚さは北米屈指であるとの期待に胸が膨らみました。当時のトロント大学は四つのコレッジから成り立ち、コウバーン先生とフライはともにカナダ合同教会が設立母体のヴィクトリア・コレッジ(日本と縁の深いE. H. ノーマンの母校)所属、フライはそこの学長でした。併設されたエマニュエル・コレッジは合同教会の聖職者養成機関で、フライ自身そこで牧師の資格も得ています。夏の間(同じ頃、光さんが誕生したあとの大江さんは、『ヒロシマ・ノート』の元になる取材のため、広島で奔走していました)、デンヴァ―のサナトリウムに収容され、それが入国の障碍となり、やっと10月になって「遅れてきた青年」としてトロント入りした私は、選択肢がないままエマニュエル・コレッジの寮に入寮し、一年のあいだ将来の聖職者たちと起居を共にしました(そこでノーマンの甥と知り合いました)。フライは大学院英文科では、隔年に批評理論とブレイクを講じ、私はブレイクを聴講しましたが、すでにブレイクによく通じていることが前提とされる「秘儀的な」授業は難解極まりなく、他方、『批評の解剖』はトロントで読み始めましたが理解が深まらぬまま帰国しました。帰国後の1966年と1967年、日本英文学会の現代批評シンポジウムでフライについて話すために、繰り返し読み、ようやく核心に達したというのが本当のところです。そのあと私はイギリスに出かけケンブリッジに長居してフライから遠ざかりましたが、出淵博、海老根宏、中村健二の三人の努力の結晶である日本語訳の出版(1980)に当たり解説を書く機会を与えられました。
 大江さんがブレイクに接し読み始めたのが、1954年に遡ることは上で推定しました。大江さんがフライを読み始めたのはいつか、確たる証拠を持ち合わせません。大江さんとの電話での会話の中でブレイク研究に関して、フライ、デイヴィッド・アードマン、キャスリーン・レイン、ジェフリー・ケインズの重要性をたびたび話題にしました。大江さんは『ブレイクと伝統』(1968)を耽読し、激しい雨嵐(レイン・ストーム)に襲われていました。『批評の解剖』は翻訳者一同から大江さんに献呈したはずです。それだけでなく大江さんは、翻訳が出る以前から私たちがフライに傾倒していた経過を認識していたと考えます。大江さんが特定の作家に打ち込むときは、その作家の全作品と研究書を買い求めて隈なく読む習慣を知っております。創作活動と社会活動でフル回転の大江さんの読書量の膨大さは驚異的です。イギリス・アメリカ文学に関連していうと、学界の動向について最新の情報を得るように努めていたことにも驚かされます。日本英文学会という正式の団体が学会誌を刊行しておりますが、それとは別に、日本の英語英文学研究と長い間不可分の関係にある民間出版社の研究社の月刊誌『英語青年』掲載の学術論文と学界情報に大江さんが目を通していたことに驚嘆しました。以前に触れましたように、大学初年次に深瀬基寛と西脇順三郎を熟読していた大江さんのイギリス・アメリカ文学に対する関心は生き続けていたのです。さらに、大江さんはイギリス・アメリカ文学を読みつづけただけでなく、じっさいに日本英文学会の活動に寄与したことを次にご紹介したいと思います。

 19815月、日本英文学会はその第53回全国大会の特別講演講師として大江さんを招きました。特別講演者として招かれるのは、国内・国外の格別に際立った学者・研究者ですが、稀に作家が招かれる事例は、私の記憶の及ぶ範囲内では、少数の英米詩人を別にすると、大江さん以外には知りません。
 この時の大江さんの演題は「作家としてフォークナーを読む」。500人を超える来聴者で満席の会場に現れた大江さんは、「皆さまは大橋健三郎と大江三郎[英語学]はよくご存じですが、大江健三郎は何かの間違いではないか、とお考えかもしれません」と大江流のジョークで笑いを誘い、すぐに本題に入りました。なお、この講演は、『文学界』(第35巻第7号、19817月)に掲載されました。それを元にして講演の趣旨を辿り、作家としての大江さんの英文学との関わり合いについて考えてみたいと思います。
 一般的に研究者が文学作品と向き合う際に、研究者も個人ですから、個人の読者として作品に接する時は、個人として好きなように作品を読む自由があると思います。しかし同時に、研究者として作品に接する場合、当該分野の研究に学術的に寄与し、先行研究よりも一歩先に進むためには、先行研究を知り尽くした上で、独自の新しい知見を加えることが義務づけられると考えます。同時にその場合、当該分野には研究上の約束事というものがあり、それを守りつつ研究を進める必要があります。それは決して独創性を否定するものだとは思いません。研究上の約束事を守りつつ、分野の先行研究の知識を前提として、その上で独創性を発揮する、それが真の独創性というものであろうと考えます。
 古今東西の文献を読み漁り、英文学に関しても、全集を揃えて徹底的な読み方をする大江さんは、研究者の資質を備えた学者的な作家であり、その立場からして、学者的・研究者的な文学作品の読み方を知り、それに対して敬意も払う作家であると思います。その上で作家としての立場から、作家独自の読みを行い、それを学者・研究者の側に投げかけ、そうすることによって文学的貢献をなす――こんなことをくどくどと言う代わりに、大江さんは暗黙のうちにそう考えていたのではないでしょうか。本当に気配りの行き届いた人で、敬服します。
 大江さんが講演で取り上げたフォークナーの作品は、主として『村』(1940)、『町』(1957)、『館』(1959)の三作品です。それぞれの創作年代も異なり、作品の中で時代も移り行きますが、同じ人物やそれらの人物の次世代が登場し、「スノープス三部作」と呼ばれる連作とみなされ、さらに「ヨクナパトーファ・サガ」の一部をなすと考えられます。ある地域を舞台として、独立した作品が連作として繋がり、「サガ」を形成する――大江作品の構図が思い出されます。作品にはたくさんの登場人物がいますが、ここでは簡素化のために人物名には言及せずに話を進めます。講演の中で大江さんはもちろん登場人物の名前を出し、プロットを紹介しながら話を展開していきますが、講演から導き出されるのは、登場人物の「類型」で、これらの「類型」をつくり出すことが、ドストエフスキーにも共通してフォークナーから学べる小説の作法であるということが講演の主題だと言えます。綿密な分析を通じて、重要な語彙を繰り返しながら、主題に向かって盛り上げていく大江さんの周到な話し方は聴く者に対しても読者に対しても説得力を持ちます。大江さんは「フォークナーを読むたびに、さて作家としての自分ならばどう書くか、というところに引きすえられる思いを、しばしば経験して」(『文学界』149上段、以下雑誌名省略、ページ数のみ示す)きました。大江さんの講演は選び抜かれた一語一語に意味があり、それらは相互に支え合っているので、パラフレーズは原意を損ねかねず、大江さん自身の言葉を抜き出すことによって講演の要約を以下に試みたいと思います。

(1)原型的女性像
 大江さんによると、「フォークナーを読みながら、もっとも想像力を刺激される仕組みをあらためて考えますと、. . . それはつねに女性的なものをつうじてでした。」(149下段)大江さんは三部作の登場人物の中に、「巨大で深い神秘性を、いわば創造的暗黒をそなえている人物は、つねに女性的原型ともいいうる女性像」(161下段)であると言います。

(2)受け手・・・」としての男性像
 しかし、そのような「女性像」あるいは「女性的原型の、激しい情熱の表現を誘い出す役割(155上段)、「多義的な情熱を女性に表現させるための挑発者、つまり受け手・・・としての役割」(155上段)を担う男性が必要とされますが、フォークナーは「そのような受け手・・・をつくり出すことで、かれの創造する女性像に、現代文学では他に例を見ぬような、大きい情熱の表現を可能」(155下段)にします。

(3)受け手・・・」としての男性像が無垢(イノセンス)であること
①そして、「受け手・・・という、方法的な必要から役割としてつくられたものと、独自な人物像の創造とが効果的にむすびついて、. . . 徹底して善良な、無邪気さ、無垢さをそなえた男性像の特別さ」(161下段)が、フォークナーとドストエフスキーに共通する「本質的に似かよった特質」(161下段)として挙げられます。
②女性像と男性像の対比性は『野生の棕櫚』(1939)や 『アブサロム、アブサロム!』(1936)にも見られます。「女性を媒介とした場合と、男性を媒介にした場合の、フォークナーの想像力の展開の差異」(163上段)があり、「フォークナーは女性像を媒介にしてと、男性像を媒介にしてとで、自己の想像力の展開の方向づけを区別」(163上段)します。「無限大にまで拡大される、そのような容量の器としての女性像ということと、それが成立するため触媒として、受け手・・・の役割を果たす男性像」(166下段)、「前者の情緒的特質は情熱であり、後者の情緒的特質はinnocenceだ、といってもよい . . . 。」(166上段-166下段)
③「小説の書き方の仕組みとして、男性の受け手・・・の受けとめが提示される時、女性的原理の想像力的な深さ、重層性がつくり出されるということが、一般的な原理として納得されます。この男性の受け手・・・を媒介項として、はじめて女性的原型の表現の、フォークナー独自の達成がおこなわれている、その仕組みを読みとることで、われわれはフォークナー[]天才を神格化するかわりに、かれの作家としての方法論の卓越を評価しえる . . . 。」(167上段)
④「男性の受け手・・・が、. . . 表現する仕方としてすぐれているのみならず、. . . 表現された人間像として独自の魅力をもつことに注目すれば、. . . フォークナーの作家としての独自さは確実にとらえられる . . . . . . 男性像を貫く特質を、フォークナー自身の言葉によって、innocenceととらえなおせば、フォークナーが現代文学の世界に導入した、重要な主題のひとつが明瞭になる. . . 。」(167下段)

(4) 小説家がフォークナーの小説の仕組みを採用する可能性
① 「女性的原型を想像力的に最大の容量が可能なものとし、そこにいっぱいに情熱をみたす仕組みとして、媒介する男性をつくり出しinnocenceを担わせる、その組み合わせは、. . . 小説という表現の仕組みの、根本のモデルといっていい . . . 。現にこのモデルは僕が自分の次の作品において採用することの可能な仕組みなのです。」(168上段)
②「フォークナーを読んでの感銘を、作家としての経験に引きつけて読みなおす時、どのようにこの小説の書き方の仕組みがつくられているかが見えてくる . . . . . . その操作が、作家としての自分の仕事に、新しい仕組みを . . . 導きこむことになる . . . そうすることで読み手として積極的に、作品に参加する読みとりが可能になる . . . 。」(168上段-168下段)

(5) 文学研究者、作家、一般読者の幸福な共働
①「かねてから、文学の専門研究者に向けて、方法論に立つ読みとりを示してもらいたい、と希望してきました。小説という言葉の芸術には、その表現の仕組みの読みとりが、つまり方法論的な読みとりが、表現されたものの読みとりへの、読み手としてもっとも積極的な仕方をつくり出すという、経験に立っての確信がある . . . 。」(168下段)
②「専門研究者と一般の享受者と生産者、その三者の幸福な共働の場が . . . 文学の場だと私は考えている . . . 。」(168下段)

 大江さんは作家として、専門研究のあり方を認識し専門研究者に十分に敬意を払った上で、作家独自の読み方をしていると考えられます。それは、小説家として、当該作品から小説の作法を学び、自身の創作に取り込むことに通じる、小説家としての読みというものです。しかし、これは作家の利己的態度ではありません。作家としての読みから、作家ではない者――それが研究者であれ、一般読者であれ――は、自分では気付かない読み方を学ぶことができます。大江さんの日本英文学会特別講演は、まさにそのような効果をもたらしたと信じます。

 大江さんと日本英文学会との共働はこれで終わりませんでした。特別講演から5年後の1986年、第58回大会のシンポジウム第三部門「ロマン主義と現代批評」に、大江さんに講師として参加してもらいました。大江さんとともに講師の一人である、英文学研究から文芸批評に活動の領域を広げた磯田光一さんは、すぐれた三島論『殉教の美学』(1964)の著者であると同時に、『日本の文学76』(石原慎太郎、開高健、大江健三郎集、中央公論社、1968)の解説を担当しています。余談ですが、旧制一高在学中に病気休学した磯田さんは、新制東大に昭和29年編入学して、大江さん、私と同期となり、私とは英文大学院に同時に入学した間柄でした。日本英文学会の学会誌である『英文学研究』(第63巻、第2号、430-432ページ)に掲載された司会者(山内)がまとめた報告を、日本英文学会(阿部公彦・会長)の許可を得て、そのまま転載させていただきます。大江さんの学会への貢献をお読み取りいただければ幸いです。(なお、当該データの掘り起こしに際してご尽力いただいた、髙橋和久・日本英文学会元会長、田村斉敏・日本英文学会事務局長、猪熊恵子・日本英文学会事務局長補佐のお三方に、心から深く感謝申し上げます。)

第三部門 「ロマン主義と現代批評」〔司会・山内久明。講師・出淵 博、上島建吉、大江健三郎、磯田光一〕

 ロマン主義を不変不動の概念として認めてしまうのなら話は別だが、「構造主義」から「解体批評」へと目まぐるしく変貌する現代批評の動向に伴って、ロマン主義も絶えず新しい光の中で再考し続けることが求められよう。現代批評が対象とするものはロマン主義に限らないが、特に両者の間に顕著な親和力あるいは反発力が働いているとしたら、両者を並列して考察することによって、一方においてロマン主義の本質の一端を探ると共に、他方において現代批評の存在理由を問うことが可能ではなかろうか。
 以上のような問題を念頭において、最初に先ず出淵博氏から、現代批評の明快な見取図が提示された。1970年代から80年代前半にかけて、英語圏における批評理論の中心地の一つがYale大学であることは広く知られている。Harold BloomBlake研究とShelley研究、Geoffrey HartmanWordsworth研究に見られるように、Yale学派の批評家はロマン主義に深く関わっている。かつてモダニズムの詩学を継承した「新批評」はロマン主義に対して限られた視野の中で接したが、逆にモダニズムをロマン主義の後裔と看做す1950年代半ば以降の批評の潮流はロマン主義の復権を可能とした。Northrop Fryeの原型批評はBlakeの神話体系を母体とする意味でロマン主義的であるだけでなく、‘intertextuality’の問題を先取りしていた点でも現代批評の核心に触れていたと言える。広く現象学、Genève学派、Derrida などを取込んだYale学派は、詩的言語の修辞性に対する強い関心を「新批評」と共有しながら、作品受容者としての読者の立揚も考慮に入れる点で、作品を自己完結的な世界に閉じ込めた「新批評」とは異なり、また「新批評」が得意とした短詩だけでなく、(場合によっては未完の)長詩をも対象とすることによって、ロマン主義に対する批評の領域を拡大した。
 上島建吉氏によると、ロマン主義の読者には二通りある。一方は素朴感動派というか、そもそもWordsworthShelleyを読み始めたことが文学に親しむ動機となった人たち 「生え抜きのロマン派」である。他方はいわゆる文学青年タイプであって、先ず同時代的問題に関心を持ち、それを流行の文学的潮流と合わせているうちにロマン主義にも目を向けるに至った人たち「遅れて来たロマン派」である。「新批評」から「解体批評」に至る現代批評が、主として後者のタイプの読者に支えられてきたことは言うまでもないが、それはそれで意義があり、大いに活用されて然るべきである。なぜなら、素朴感動派の説くロマン主義のなかには、「解体」されて差し支えない固定観念がいくらでも見つかるからである。ロマン主義の詩をレトリックとして読むことに上島氏は反対するわけではない。文学は直観や情念による現実再構成の様式であり、それが様式である限り知的分析を受けうるものである。しかしもし文学批評が、分析のための分析、理論のための理論に走るならば、それは批評行為そのものの解体にも通じかねない。今日、批評や研究をこの危険から救うためには、少くともその出発点として、ロマン主義のもつ直観や情念への素朴な認識と感動に立ち返ることが必要であるこれが上島氏の論点である。
 現代日本を代表する作家大江健三郎氏は、第53回大会における感銘深い特別講演で論じられたWilliam Faulknerについてと同様に、William Blakeや現代批評についても造詣が深い。手始めに大江氏は、1800-1803William Haleyの庇護下にあったBlakeが官憲に襲われたさいに国家権力を罵ったかどで告発された、いわゆるFelpham事件を契機に、体制批判を予言書の神話体系の中に組込んだ事例に因んで、社会批判とロマン主義的想像力との共存が可能であることを指摘した。次に自作『新しい人よ眼ざめよ』(1983)にふれて、この作品を一種の「私小説」と看做す批評家の意見に反論した。この作品は大江氏によると、BlakeMiltonについての‘discourse’である。この作品の‘referent’は、誤解されがちなように作者とその家族ではなくて、Blakeの神話的人物であり、その意味でBlakeの作品とこの作品とは‘intertextuality’によって結ばれている。またBlakeの作品の背後にはKathleen Raineが探り当てたNeo-Platonismのような「伝統」が存在するのと同じように、大江氏の作品は、小宇宙としての「村」が大宇宙としての世界に通ずることを可能にする普遍的な「神話素」の上に構築されている。大江氏にとって創作(家)の問題と批評(家)の問題とは別物ではない。現代批評が高度に精密な科学的分析を行うことは、当の批評家がイデオロギーに立脚した生活者であることと矛盾しない。大江氏のことを「構造主義的ロマン主義者」と呼ぶことが許されないだろうか。
 英文学者であると同時に文芸評論家である磯田光一氏の発言に底流していたのは歴史意識であったと言えよう。産業革命の先進国としての英国をモデルとした明治日本における島崎藤村や北村透谷に代表されるロマン主義の詩人像は、産業革命期の英国社会のアウトサイダーとしての英国ロマン主義詩人の原型と大体において符合するものであった。それに対して、ヘーゲルとともにマルクスの移入されたドイツ的思想風土の中で、マルクス主義の洗礼を受け挫折してのちに国家主義へと向かった保田与重郎と日本浪曼派に、日本的ロマン主義の極致が見られる。次に現代批評に関して磯田氏は、textの絶対化の代りに、広義の歴史主義を提唱し、過去の歴史的contextと現代的contextとをつき合わせてtextを読む態度の必要性を説いた。その一例として、WordsworthShelleyByronのそれぞれの作品では産業革命による汚染の象徴として用いられていた‘smoke’のイメージと、東京高等工業専門学校の校歌では繁栄の印として謳歌された林立する煙突のイメージを、比較対照しながら巧みな分析が行われた。textが絶対的なものでなく、むしろ不安定なものであることが証明されたように思う。
 各講師の発言が一巡し十分間の休憩ののちに、講師相互間ならびに会揚の参会者との質疑応答に入った。最初に出淵氏から、近刊のM. Eaves and M. Fischer ed., Romanticism and Contemporary CriticismIthaca, N. Y.: Cornell University Press, 1986)〔注─日本英文学会の企画はこの本の出版に先行した〕が紹介され、Hillis Millerの‘A slumber did my spirit seal …’の解釈に関連して、解体批評が精巧化すればする程その手法が類型化してしまう危険性のあることが指摘された。続いて出淵氏と磯田氏との間で、日本浪曼派の評価をめぐって議論が交された。磯田氏の答弁に対しては大江氏からも異議が述べられた。大江氏は続いて、津田塾大学高井氏、広島大学高橋氏、中央大学大学院小山氏から大江氏宛に寄せられた創作の可能性についての質問に対して懇切に答えた。このあと上島氏から、磯田氏の‘smoke’の分析に批判的に触れつつ補説が行われたあと、名古屋大学今泉氏から寄せられた解体批評についての質閙、ならびにMiltonとロマン主義詩人との意識の違いについての質問に対する答えが述べられた。更に出淵氏および司会者も議論に加わったが、この時すでに予定の時間を遙かに超過しており、閉会となった。各講師の御尽力と、六百人を超す参会者の御協力に対して、司会者として心からなる謝意を述べたい。(文責司会者)

 いただいたお手紙において多岐にわたる幅広い問題をご示唆いただきながら、散々お待たせした挙句に、その一部だけに不十分にしかお応えすることができておりません。大江さと英(米)文学という大問題のうち、私が提供可能な情報に絞って書かせていただきました。機会をお与えくださいましたことに対して、厚くお礼申し上げます。

2023年1025日 山内久明