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2022.09.12

映画『籠城』をめぐって(3)於 山形大学

2022年7月23日(土)に山形大学で行われた映画『籠城』上映会アフタートークの記録を公開いたします。

 

柿並:改めてご紹介いたしますと、このドキュメンタリー映画『籠城』のプロデューサーを務められたのが髙山花子さん。一番右手にいらっしゃいます。東京大学東アジア藝文書院(EAA)で特任助教を務められていて、私が出張で授業ができないときに代講していただき、大変お世話になっております。髙山花子さんはモーリス・ブランショ研究がご専門で、単著の『モーリス・ブランショ──レシの思想』が去年に刊行されまして、つい最近『鳥の歌、テクストの森』という2冊目の単著が早くも出ておりますので、書店でお買い求めください。それから、ご登壇いただいていますのは小手川将さん、監督を務めておられます。カメラパーソンを務められております一之瀬ちひろさん。声の出演の金城恒さんにもご登壇いただいております。
では最初に、色々なところでお話しいただいているかもしれませんが、ごく簡単に、このドキュメンタリー映画が制作されるきっかけとか背景とか、全般的なことをあらためて説明していただいて、そこからもうちょっと突っ込んだお話を伺えればなと思います。

小手川:ご紹介いただきありがとうございます。そして、ご覧いただいた皆さんもありがとうございました。ご覧いただいた『籠城』という作品は、今年の3月に完成したもので、始まりは202011月、最初の制作ミーティングがあったんですけれども、駒場キャンパスにあった旧制一高というのをテーマにした作品です。旧制一高は最初、本郷にキャンパスがあったんですけど、1935年にいま東京大学の教養学部がある駒場キャンパスに移転してきまして、戦後、1950年まで存続したんですが、この『籠城』はその中でも、1935年から19441945年の終戦間際ぐらいまでを時代背景とした作品です。
最初は、プロデューサーの髙山さんが勤務していらっしゃるEAAにて、その旧制一高の研究を行うプロジェクトが映画制作の前に立ち上がっていた。それはEAAの駒場オフィスが位置する101号館という建物が、当時、一高時代に中国人留学生のための学舎として使われていたという、そういう歴史がEAAの駒場オフィスができたときにわかったから。それで、そういう歴史的な背景があるならば、一高というものを研究することが必要なのではないかという経緯で一高プロジェクトが立ち上がった。その一つの成果である「もうひとつの一高」が、つい先日まで駒場博物館で展示があったんですが、こういうプロジェクトがあったんですね。
ただ2020年に新型コロナウイルスの感染が広がってしまう。これ〔「もうひとつの一高」〕は駒場博物館でやりましたけど、博物館で展示をするとか、そういうことが非常に難しくなってしまった。しかし、映像であればこうした研究成果であったり、発掘した資料だったりとかを紹介できる、色々な人に届けることができるのではないかという発案があって、旧制一高というものと映像というものをどうにかして組み合わせられないかというのが最初のアイデアとしてあったと思います。そこで初めて、私とか、いま記録に入っていただいている日隈さん、今日は残念ながら来られなかったんですけど、旧制一高を研究されている博士課程の高原さんという、この3人がリサーチ・アシスタントとしてEAAに所属して映像制作をいざ始めようと、大まかに最初の経緯を申し上げますとそういうことになっております。つまり、このようなかたちでの映画制作をしようという計画を立てたのはその3人が集まって、髙山さんがプロデューサーとしてスケジュールだったり予算だったり、この大きなプロジェクト全体を管轄してくださったという体制が整った後のことなんですね。
それで、駒場博物館に所蔵されている一高の資料だったり写真だったりを見たり……作品の中にたくさん使わせてもらったんですけど、その資料はほぼすべて駒場博物館に所蔵されているものばかり。あとは、寮日誌。一高にかつて寄宿寮があって、もう今では取り壊されていてないんですけれども、その寄宿寮の中で生徒たちの委員会というものがあって。そこに、〔一高生活が〕こと細かく書かれていた寮日誌という資料、基本的に生徒たち委員会の中でしか読まれなかったような分厚い日誌があるんですけど、そういうものを主に読んでいく中で、こういうかたちで映画がつくれるのではないかというアイデアが生まれた。そこから、いま前に座っていらっしゃる一之瀬さんだったり金城さんだったりとかに参加していただいて、去年の8月、9月ぐらいから徐々に映画制作のチームとして、クレジットに名前が載っていたような方々に協力してもらいながら、脚本を書いたり、こういうふうにセリフを読んでもらいたいというようなワークショップを、主にオンラインを使ってですけれども、非常に幸運なことに対面でもなんとか会うこともできた。そうした中で撮影だったり、録音だったりというものを重ねていった。編集が年末にあり、そうして3月に完成したと。これが大まかに……長くなりましたけれど、プロジェクト全体の説明になるかなと思います。

柿並:ありがとうございます。まずEAAでプロジェクトがあり、博物館の展示があり、スピンオフ、メディアミックス的というわけでもありませんが、コロナ禍で展示が難しいという時局の問題もあり、いろいろな状況が重なって映像作品が出来上がった、そういう側面があるんですね。
では早速ですが、今日来ていただいているドキュメンタリー映画祭の日下部さん、そして山形大学の映画研究者の大久保先生にコメントをいただきましょうか。お二人、いかがでしょうか。 

日下部:楽しませていただきました。制作の背景は今、なるほどと思いながらお話をお聞きした次第です。僕は感想にしかならないので、恐縮なんですけれども、ちょっとお聞きしたいのが一つ。最初に出てくる地下というか、ファーストショットのところというのは、先ほど言った大学の構内のいずれかの場所ということですか。

小手川:そうですね。駒場キャンパスの、今も残っているんですけれど、旧制一高が駒場に移転したときにつくられた地下道です。地下道がつくられた本来の意図としては、かつてあった寮と1号館、授業で使われた教室との間を繋ぐ。あとは、今は博物館で、当時は資料室として図書館のような役割をしていたんですけど、それらすべて地下で繋いでいたんですね。雨が降ったりしても濡れずに移動ができる、そういう目的でつくられたと言われている。今回、普段は入れないんですけれども、特別に許可をいただいて入らせていただいて撮影したということです。

日下部:魅力的な雰囲気があるというか……最初に出てきて、なんだかハマスホイの絵画のような印象をぱっと受けて、そこからすっと映画の中に入っていけた。男性の背中越しに映したくすんだ感じの素敵な壁が、おっと思わせて、最初の方から興味深く見させていただいたところです。
もう一つ質問なんですけど、スタンダードサイズ(4:3)で撮られた理由はあったのかなっていうのをお聞きしたいと思う。フッテージなども使っていて、当然そういうところとの絡みもあるのかなと思ったんですけども、画面の収まりが非常にしっくりきていたという感想を持ったので、お聞きしたところです。

小手川:ありがとうございます。一之瀬さんと相談しながら決めていったところが大きいんですが、当時の資料の写真のサイズだったり、資料映像のサイズだったり〔を意識しました〕。あと4:3という当時の映画のサイズというもので、現代の男の人が出てくるようなショット〔も撮影した〕。〔当時の駒場と現代を〕同期というかシンクロさせるショットのアスペクト比っていうのは何だろうと考えていて、そこで直感的に4:3しかないかなというふうに僕は思ったんですね。
一之瀬さんとも、写真の撮り方をいろいろ工夫して、写真の枠をショットのフレームの中に収めるか、それとも写真の中に入って、ショットの枠を写真の中に入れてしまうとか、そういう微妙な操作というのは撮影しながら決めていったと思います。

一之瀬:ふだん私は写真を複写することが多いんです。研究以外に写真を仕事にしていまして、写真を複写することは今までもよくありました。それで、イメージだけを撮るのと、写真の質感を残して撮るのとでは見え方が違ってくると思っているので、それを今回も、あえてイメージだけを撮る撮り方と、写真の質感を撮ったり影を見せたり、劣化した角がよれたりしている状態を見せたりを、どっちかに統一せずに両方を入れるっていうかたちにしています。

日下部:駒場の門を映した映像がシンメトリーになって、4:3のフレームにしっくり収まってきて、そこでフッテージと地続きの感覚になると思って、感心しながら観ていました。

柿並:ありがとうございます。大久保先生いかがでしょうか。

大久保:非常に興味深く拝見させていただきました。こうした機会をいただいて光栄だなと思いながら観ていました。『籠城』はドキュメンタリーのカテゴリーに入るのでしょうが、フィクションとのあわいを感じさせる作品だと思います。これは領域を横断しながらアクチュアリーに接近していこうとする現代のドキュメンタリー映画の傾向とも通底していると思います。
非常にいいなと思ったのは、サイズがスタンダードであること。これはリュミエール兄弟のシネマトグラフに通じるような歴史性を感じます。おそらく意識して選択されたのではないかと思います。
また、冒頭の方で、現代の駒場の風景から過去の写真に移るとき、人の後ろ姿をとらえたショットから、それとよく似た後ろ姿の写真に切り替わるところがありましたよね。ひとつの身振りによって時間を一気にさかのぼるような感覚がありますよね。現在と1935年当時の一高生の時代は地続きであるのではないか。ジャン=リュック・ゴダールの『JLG/自画像』「過去は存在しない、過去ですらない」という言葉を思い出すようなショットでした。
あと、この作品は一見穏やかで、非常に静謐ですけれども、タイトルが非常に戦闘的ですよね。「籠城」という言葉は、敵が攻め込んできて、その攻め込んでくる敵から何とかして守っていくというイメージを喚起させます。防御なのか攻撃なのか分かりませんが、一つの闘争形態には違いない。ある種の激しさを感じさせるタイトルです。「語らなければならない」という非常に厳しい命令の言葉が呪文のようにリフレーンしている。だから激しさとともに切迫感が同居してもいる。
そこで質問ですが、ナレーションのテクストを書くときに、どのようなお考えで書かれたのかをお伺いしたいです。テクストの生成過程のご苦労があれば聞いてみたくあります。

小手川:ありがとうございます。ご質問にお答えしたいんですが、すみません、補足しなければならなかったです、タイトルの籠城にかんしてなんですけども、これは旧制一高にあった籠城主義という言葉から採っているものです。どういう意味かというと──本郷キャンパスのときも同じように使われていたんですが──キャンパスの内側と外側をはっきりと境界づけるということ。寄宿寮もあり、一高に入学した生徒たちが寝食を共にして授業を受け、共同生活を寮で営んでいたというそのキャンパスの中で培われる一高生のエリート意識を自認して、自分たちはキャンパス外の他の人々とは違ってエリートであり、しっかりと教養を身につけて、ゆくゆくは国を代表するような人間にならなければいけない、そういう意識を表した言葉なんです。
それを籠城主義というふうに言っていて、おっしゃるとおり闘争の側面もあったと思います。〔作品の舞台は〕ちょうど戦中の状況で、たとえば外から軍隊が入ってきて、寮を使わせろというふうに要求があった。寮は生徒のものだから本来は一高生以外が使うべきではないんだけれども、それでも使う必要があるから、夏休みの期間だけ使わせてくれというような要求を結果的に飲んで、渋々自分たちの部屋を明け渡したという記録が寮日誌に確かにあった。
あとは映画にも出したんですけれども、中国人留学生の問題もあった。留学生の課程には予科というものがあって、1年間、留学で中国から来た生徒たちが日本語などの基礎的な教育を受けて、その後で一高の本科の留学生として登録されるという制度だったんですが、その予科生がキャンパスの中にいるはいいのかと、一高生として認めていいのかと、そういう論争が1936年という移転直後ぐらいにあった。それで学校側と生徒のあいだで過激な論争があったりもしたんですけれども、このようにオーセンティックな一高生というものをキャンパスの中で維持していくという意識が非常に強く、そういうものが籠城主義という言葉には込められていると思っています。
そうしたタイトルを冠したうえで、テキスト、脚本……どういうセリフを映画の中に入れられるかというのを考えていました。最初にお話ししたように、制作のコアのメンバーで、この制作の前から一高を長く研究されていた高原さんという方と一緒にテクストをつくっていたんですけれども、なんというか……僕は一高の歴史、駒場キャンパスに一高というものがあって、一高時代の建物が101号館だったり1号館だったりっていう基礎的なことを制作に入ってから知っていったという感じだったので、〔自分と高原さんの〕あいだで、一高というものをどう描くかという点ではバトルというか議論があったんです。ただ、大久保先生もおっしゃったように、ドキュメンタリーでもありながらフィクションの要素もあるというのは、高原さん自身の一高に対する考えだったり研究のモチベーションだったりということと、自分が博物館に入って──それもかつて実際に資料室として使われていた建物の中で──一高の資料を読んでいるという、そういう制作初期の体験というものが影響していると思っています。
ある種のオーソドックスなドキュメンタリーとしてつくることも可能だったのかもしれないんですけれども、むしろ、実際に駒場の一高生が使っていた建物の中で一高の資料を読んでいるという、その構造自体が面白いというか、ちょっとゾクゾクするような感じがあった。この建物の中に、まさにこの博物館の写真が遺されていて、それを見ているんだけれど、自分は今まさにここにいるじゃないか、みたいな。この不思議な感覚の方が映画として……そういう空間のあり方というか、歴史のあり方というものを表現して伝える方がいいのではないかという気持ちがあって、ああいう作品になったんです。
あと、テクスト自体は断片的な言葉が連続していて、「〜しなければならない」という強い命令、規範的な言葉を繰り返してリフレーンしていくっていうテクストのつくりにしたんです。というのも、実際に一高生たちの当時の記録などを見てみると、──それは寮日誌もそれ以外もそうなんですけれども、──どうやって一高の設立当時の精神だったり、あるいは、一高生とはこうあるべきだという学先生たちの演説などを聞いて、われわれはどうすればいいかという応答の議論や論文が載っていたりするんです。そういうものを見ると、どうやって設立当時のものを引き継いで、受け継いで、代が入れ替わっても、こうあるべきだという理想の、オーセンティックな一高生というものを、このキャンパスの中で維持できるかというところに非常に強い軸があったと思う。そこには、一高の歴史というものに一本の持続する線というものを通そうという意志と同時に、設立当時の理想とされているものをどのように繰り返し、キャンパスが変わっても反復できるかという断続的な歴史というか過去への意識もあったというふうに思ったんです。いかにいずれにも〔偏らせずに〕、作品の見せるイメージと発せられる言葉で両立できるかというのが、テキストを書いていたときに一番意識したことかな、ということでお答えになっていたでしょうか。

大久保:はい、ありがとうございます。

柿並:私からも結構いろいろたくさん質問があるんですけども、簡単なところでちょっとよろしいでしょうか。「正門主義」という言葉が出てきました。正門から入るべし、そんなのがあったんですか。裏道から入ってはダメ、ちゃんとした一高生なら正門から入るべしということでしょうか。

小手川:はい、必ず正門からしか入ってはいけない。正門以外から入った生徒がいたときは懲罰委員会が開かれて罰せられていた。

柿並:そうなんだ、「裏口入学」ではないですけど(笑) 裏口とかはあったんですかね。

小手川:そうですね、あと柵を越えて入ったりしても駄目でした。

柿並:あれは一体なんなのかと気になりまして……。今回は一応、予告編やホームページ上の概要などは拝見してたんですが、こうやって映画を体験するのは当然初めてでした。一高、旧制高校という名は知っている程度だったんですが、自分の研究──基本、哲学とか思想をやっている観点から非常によく理解できるところがあって、それは良いことなのか悪いことなのか分からないんですが、ああ、日本でもこういうことがあったんだなと思ったことがいくつかありますので、質問というかコメントのかたちでいくつか喋れるかなと思ったんです。
先程、大久保先生もフィクション的な側面があるということをご指摘されていましたけど、いいかえるならば、非常にポエティックなドキュメンタリー。ポエティックというのは、普通の意味で詩的というのではなくて、ギリシャ語の語源に遡って言うところのポイエーシス(poiēsis, ποίησις)、作成・制作するという意味でのポエティック。それも非常に両義的な意味でポエティックな映像作品だというふうに思いました。ポエティックと言っているのは、僕はしばらくドイツ・ロマン派にかかわっているので、その発想がどうしても出てしまうんですけど、さらに言えば、ドイツ・ロマン派の影響やそれに対する一種の反応として出てきたドイツ哲学、2つの大きな名前を言えば、ニーチェとハイデガーの間にある映画だというふうに思いました。
ハイデガーっていうのは非常に分かりやすい話です。先ほど、小手川さんかな、中国人留学生の問題、何をオーセンティックな一高生として認めるかという。ここにオーセンティックという言葉が出ていましたが、ハイデガー的な言葉で言えば、それは本来性ということです(しばしばEigentlichkeitauthenticityと訳されます)。ハイデガーの場合は、たとえばドイツ民族の本来性ですが、共同生活している共同体という言葉が映像の中にも出てきましたね。ある閉じられたクローズドな空間の中で、本来的なもの、オーセンティックなものというのは何か、そこにはどういった精神があるべきなのか。この精神というもの、ドイツ語のGeistもハイデガーにつきまとう厄介な言葉であり、それを引き受けなければいけないという決断主義、そういったものに責任を負うという自覚──大久保先生はこれについて激しさという補足を加えられていましたけれども──すべてハイデガーの語彙と言えます。当然ご存知かと思いますが、ハイデガーがナチスに協力していたというきな臭い歴史も含めて、そういったものがかぶってくるわけです。
それから、ぱっと見は気がつかないかもしれないんですが、「形」という言葉が何回か出てくる。「形成」という言葉は確かあったと思います。曖昧模糊たるアイデンティティーに形を与えること。それを自覚して引き受けて、形として後世に伝えなきゃいけないというのが、この映画の表向きのモチーフだったように思います。これはドイツ語で言えばビルト(Bild)です。フランスだとフォルマシオン(formation)、英語でいえばフォーメーション(formation)です。ビルドゥングス・ロマーン(Bildungsroman)、教養小説と言いますけれど、このモチーフはドイツ・ロマン派にもなだれ込んだ。伝統から断ち切られたとき、われわれは自分というものに形を与えなければいけないというのは隠されたテーマで、ハイデガーとかにもなだれ込んでいるというのが、僕が専門にしてるナンシー、あるいはラクー=ラバルトによるドイツ文学・思想の読解だったわけです。
ドイツ・ロマン派は、必ずしも日本のこの時期の状況に無関係ではなくて、ちょっと細かいところは飛ばして適当なことを言いますけれども、やはり保田與重郎がドイツのシュレーゲルらの影響を受けて、日本浪漫派を立ち上げるわけですね。そのときに大和魂、大和精神が持ち出されるのには、当然、通底している部分があるわけですよね。それで1935年から1945年という戦争が激化する時期にあって、保田與重郎の文章が学徒出陣の若者の心の支えになったり、一高という知的エリートによく読まれたりしたわけです。この映像の中では、その辺はサラッといく感じなんですけど、やはり最初から、学問の殿堂、神聖なる学舎みたいなのがドイツ・ロマン主義の理想とかぶってきてしまうし(雑誌『アテネウム』はアテネ神殿という意味です)、そういった高邁な学問の理想の精神と勇ましい軍国主義のかけ声が二重写しになってくる。そういう状況、時代背景がすごく見えるように私には感じられました。
というのは表向きな、ハイデガー的な側面です。ただし、ニーチェ的と言ったのは、歴史の重さというのは、それを引き受けなければいけないとベタに言っているわけじゃない、という意味です。映画の中でたまにあった引用のかたちで「〜と彼らは言う」とか、ざわざわざわざわっていう、ある意味では耳障りな気持ち悪い亡霊たちの重み──地下道にいるっていうのは、ひょっとしたら、そのアレゴリーなのかなと思ったんですが──歴史の重みに潰されそうになってしまうから、われわれは歴史を忘れなければならないと言ったのがニーチェです。われわれは歴史のせいで病気にかかっているんだ、それは忘なければいけない、と。

大久保:『反時代的考察』第2篇「生に対する歴史の利害について」の第2章で述べられている、記念碑的歴史、骨董的歴史、批判的歴史の区別ですよね。 

柿並:補足ありがとうございます。そのニーチェについては遠近法主義もよく知られています。映画の最後で主観と客観の問題に少し触れられていましたが、これは遠近法主義の問題とも考えられます。先ほどの「〜と彼らは言う」と括弧入れするという点も含めて、この映画は少しだけニーチェ的な素振りを見せていると言えます。
さらに言えば、話がかなり飛びますが、ざわざわしている亡霊たちの声を聞き取らなければいけない、後世に伝えなければいけないっていうのは、徹底的に倫理的な命題に見えます。確かに、その忘れ去られていってしまう無数の小さな声を拾い出すのは歴史家の務めだ、というと倫理的な命題に聞こえるんですが──形式的に言ってそれは決して間違っていない倫理的命題ですが──祖国の亡霊たちのつぶやき、誰々に復讐しろ、隣の民族に復讐しろ、私たちのことを忘れるな、我々の恨みを忘れるな、という声を聞き取ることも、その倫理的命題は形式的には拾い上げてしまう。だとすれば、これは少しデカルト風に言えば「悪しき霊(genius malignus)」。正しい神の声ではなくて悪しき霊の声を、我々は十把一絡げに倫理的命題によってすくい取ってしまうのではないか。もしそうならば、良い亡霊と悪い亡霊を我々はどこで線引きをすることができるのか、という問題をこの映像は提起した、そう私は勝手に拾い上げてしまいました。
そのとき、「~しなければならない」という亡霊たちの声を、映画の中の大学院生は書き取ろうとしているし、あるいは観ている私も書き取ろうとしている。さっき小手川さんは反復という言葉をお使いになられたんですが、聞き取ること、書き取ることの反復がある──でも、歴史的事象は勝手に反復するのではなくて、自覚的に引き受けるものであって、これはキルケゴール的な身振りですし、さらに先程のハイデガーにつながる。というふうに、つねにハイデガーとニーチェの間で非常に引き裂かれている。ベタに観れば、ハイデガー的な方向に引き寄せられている。そこにわれわれは、歴史を引き受けるという魅惑を感じてしまうわけですね。「〜ねばならない」というあまりにも強い言葉に引き寄せられそうになるが、時々、ニーチェ的な笑いが聞こえるような映画であった……今の自分の研究関心から、そういったことを考えながら拝見しておりました。とくに質問ではないんですが、哲学研究者からするとそう考えさせる作品だったなというふうに拝見しました。

小手川:初めてこういうふうに見ていただいたので、感動的というか、自分よりうまく説明していただいて何も言うことがない気がするんですけれど……やはり当時ドイツと日本の関係は強くて、ヒトラーユーゲントが来校していた写真も使っていたんです。あれは1938年で、当時のナチス・ドイツとの強い関係もあれば、あとはnationの問題というのもある。作品の中で使わせてもらったんですが中国人留学生と日本の一高生との予科設置など留学生問題を巡った闘争、議論というのは、当時の英字新聞で──要するに外国の目から見ると、──あれはnational frictionであると、民族の問題であると、そういうふうに見られていたんです。その記事のスクラップを寮日誌に貼って、そんなことではない。これは一高生かどうかの問題であって、民族対立の問題ではないというふうに一高生は反論しているんですね。そういう問題が非常にささやかに、はっきり前景には出していないんですけれども、映画の中にある。
また、これは作品の中には入ってはいないんですが、籠城主義について、寮日誌の中にある寮委員が話している記録があったんです。「籠城主義とはあれかこれかである」というふうに書いてあった。明らかにキルケゴールを意識しているもので、そういうふうに籠城主義を定義していたのかと。そういう記録を読んでいたのも、かなり無意識なところがあると思うんですけれども、作品の構成に影響していたのかなといまコメントいただいて思いました。

柿並:ある種の勇ましさに哲学や文学が利用されていく、あるいは後ろで支えていくという状況がドイツでもあったし、日本でもやはり共同生活という日常の中に紛れ込んでいたっていうのを断片的ですが見せてもらいました。例のシーンに出てきたのはやはりハーケンクロイツですよね。ヒトラーユーゲントだったんですね、1938年?

小手川:そうです。来日して、そのときに来校して、一緒に食事をとった。

柿並:同盟国の学生の交流……その辺は全然知らなかったです。ここまでで40分ぐらいですか。もうちょっと時間をとってもいいのかなと思うので、あとはざっくばらんに、あれはどうだった、これはどうだったみたいなことがありましたら、いかがでしょうか。撮影裏話でも良いです。

一之瀬:ハイデガー的とニーチェ的と簡潔にまとめていただいているお話を聞きながら思ったんですけど、声の制作の現場でそういう話がつねに出ていたんです。ニーチェ的やハイデガー的という言葉を使ってなかったんですけど、この映画の結論をどうするのか、セリフはこのままでいいのかという話をずっと議論していました。歴史を継承するということを積極的に受け入れるのか、それとももう少し批判的に捉えるのか、どういう立場を取るべきなのかっていうのを声の出演者の人たちもすごく自分たちの問題として話し合っていたなっていうことを思い出しました。 

金城:そうですね。僕はどちらかというと、規範からは自由になってほしいというふうに思っていました。正しく記録しなければならないとか、立身出世のイデオロギーじゃないですけど、頑張って勉強して一高に入って、東京帝大に入って、国家のために仕えるみたいなイデオロギーから少し自由になってほしいなというふうに。現在の主人公の大学院生もある意味でそういうイデオロギーの中に自分を位置づけているからこそ、現実とのギャップで苦しむみたいなところがあると思うので、「〜ねばならない」の時代からはもう少し自由になってほしいです。セリフももう少し、なんというか自由な方向性を持つようなものにしてもいいのではないかなという意見で、小手川さんと議論したことを覚えています。

小手川:一之瀬さんも話してくださったんですけど、やはり歴史の問題というのは大きくて……歴史とひとくちに言っても、この時代の歴史というのは特別難しい歴史だと思う。非常に難しい時代のことで、その取り扱いというのにはあまりにも困難で複雑な問題がたくさんあると思うんです。その中でもどれが自分たちにとって扱えるか、しかもそれを単に歴史の問題として遠くに見るのではなくて、同じキャンパスにあった一高が抱えていたような問題というのは決して過去のこと、もうすでになくなった話ではなくて、──素直にそれを引き受ける必要はないにしても──自分たちの問題としても捉えられるように、距離はあるけれども、近くにも感じるし遠くにも感じる必要がある。なんというか、そうした歴史との距離というものが議論のテーマにもありましたし、そこが一番問題だということが〔制作の〕共通認識としてあったかなとは思いますね。

柿並:声でいうと、やはり最後が耳のクローズアップで終わりっていうのは象徴的かなと思いました。先ほどハイデガー的と言いましたけど、ハイデガーもやはり呼び声、民族の精神にどうやって迫るかというと、呼び声を聞くんだと言いますよね。聞いちゃうんですね。心の耳なのかもしれないですが、そう考えると象徴的な終わり方なのかなっていう気がします。小さいけれど耳を聾するようなサウンドの効果が本当に印象的な映像音声作品だという印象を受けました。

大久保:耳のクローズアップは、タルコフスキーの『惑星ソラリス』を思い出さずにはいられませんでした。映画の終盤、主人公のクリス(ドナタス・バニオニス)の耳が大写しになる。あそこで彼は「我々に必要なのは鏡である」というようなことを言っている。もし違っていたら修正してほしいんですが、それを少し意識されたのではないか、と思ったりしていました。こういうことを種明かしみたいなことはしたくないかもしれませんが、制作においてレフェランスにしていた作品があれば教えていただけないでしょうか。

小手川:正直に言うと、『惑星ソラリス』にかんしては、僕はタルコフスキー研究を修士、博士課程としているんですけど、制作途中に参照しようって意識的に考えてたわけではないです。でも撮った後に、人に言われて、ああタルコフスキーだって(笑)なるべく意識しないようにしていたんです。やっぱり研究もしているし影響を受けちゃうから、なるべく無視して、タルコフスキー映画を観ないようにしようとかまで思ってたんですけど、やっぱり影響があったんだなというのは……恥ずかしいことですね。でもまさにそういうシーンがあって、無意識下の引用というのはありました。
もう一つ、明確に引用、というか撮影時に意識していたのは『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』のショットで、一之瀬さんと撮影の前に、これすごいいいね、って。机に向かって後ろ姿を撮るとか光の入り具合とかも、これは使えるね、みたいな感じで意識したところがあります。

一之瀬:そうですね。『牯嶺街少年殺人事件』では、アジアの学校の校舎を撮っているという共通点もありましたし、あと先程、ハンマースホイっていうふうにおっしゃっていただきましたけど、後ろ姿がすごい印象的なことが多い。あと、『牯嶺街少年殺人事件』には、人がいなくなるけどその後も続くシーンがたくさんありますね。人がいないけれど、その場が残っているっていうのが、駒場の場所をどう撮るかというのに通じるんじゃないかなって思ったりとか、そういうことを考えたりしていました。

柿並:ショットというか、最後の銀杏並木のシーン、ずーっと長回しですが、あれはどうやって撮ったんですか。台で押しているとか。

一之瀬:あれは色々試しましたね。

小手川:台も試しました。最終的には手持ちのカメラで、ジンバルをつけて、ゆっくりと歩いてもらった。

一之瀬:しかもあれ延ばしているんですよね。24コマじゃなくて。

小手川:そうですね、若干スローモーションをかけて、人が歩いているようでもあり、でもちょっと上を向いていて、不思議な動きに……徒歩だけど徒歩ではあんなふうに歩かないだろうという。そういうショットにできると良いなと。大変でしたよね。

一之瀬:何回も何回もね。

小手川:ありがとうございました。

柿並:それまでモノクロっぽい感じが基調で、あそこだけカラーになって、対比的なところかなと思いました。

小手川:駒場の緑って印象的というか、植生というのがキャンパスを特徴づけている。写真は白黒ですけど、おそらく当時から緑というのは結構大きかっただろうと、ちょっと意識していました。

柿並:それで最後になって出てくると。

小手川:銀杏並木は当時からあって、最初に出てくる記録写真は、銀杏並木に立っている男の人の背中の写真なんです。今と違って、当時はもっとキャンパスには人が少なくて静かな場所で、一方で、駒場寮の方は生徒がたくさんいて、ガヤガヤとうるさく、寮歌を歌うし、下駄でばんばんと廊下を歩いていて。でも銀杏並木の方に行くとしーんとしてたというのは、一高卒業生の方にインタビューする機会が去年の7月ぐらいにありまして、工藤さんという方なんですけど、一高の思い出などをお聞きしたんです。その中で、銀杏並木を一人静かに歩いて、好きな寮歌を口ずさむ時間というのを覚えていてね、と。それが印象的で思い出深くて、さらっとした感じのエピソードだったんですけど自分の中に残っていた。ああ、あの直線ってそんな素敵な思い出をつくる場所だったんだって。そういうエピソードもあのショットには影響していました。

柿並:それではそろそろ、第2部のトークセッションは一旦閉じさせていただきます。どうもありがとうございました。