2020年12月4日(金)、第9回「UTokyo-PKU Joint Course」が開講された。第7回との二回構成で、講師の楊立華氏(北京大学哲学学部教授)は引き続き、中国近代において学者・思想家・革命家として知られる章炳麟(1869-1936)の著書『斉物論釈』をめぐって講義を展開した。
事前配信講義で楊氏は主に、章炳麟がなぜ唯識学をもって独自の哲学システムを構成しようとしたのかについて議論をすすめた。講義当日は、章の哲学システムを「唯識一元論」として扱い、あらゆる客観的・主観的主体が「識」の異なる形態に過ぎないという主張が『斉物論釈』において貫かれていると強調した。
楊氏によれば、システムとして成立できる哲学は一元論でなければならないが、それは、「多元」を排除し、均質的で無差別に世界を認識することを意味するわけではない。いわば、哲学の要務とは目まぐるしく移り変わる世界において真なる確定性を模索することであるなら、こうした観点より、唯識一元論を樹立しつつも、差異性を強調する章の思想的意義が見出されるということである。
扱われたテキスト自体が非常に難解であったにもかかわらず、講義の後に興味深い質問が複数提示された。例えば、『純粋理性批判』におけるカントの「変」と「不変」との関係性について、『斉物論釈』に関連する議論があるかという質問が挙がった。これに対して楊氏は、ヘーゲルとシェリングによるカント批判と比較しつつ、章炳麟がカントの「カテゴリー論」に困惑した一方で、「カテゴリー」を参照しつつ阿頼耶識の「種子」を論じた、との見解を述べた。また楊氏は、東アジアに位置しながらも、西洋的知識枠組みを用いて世界を認識しようとする我々が、如何にすれば、西洋一辺倒ではなく、東アジアという文脈の中から独自の思考様式を掘り起こし、編み上げていくことができるかという問題に、聴講者たちを導こうと試みた。
報告者:徐莎莎(EAAリサーチ・アシスタント)