2020年11月29日(日)19時より、第2回『天下的当代性』を読む会がZoom上で開催された。当日の参加者は、ヴィクトリヤ・ニコロヴァ氏(総合文化研究科修士課程)、孔徳湧氏(経済学部経済学科4年)、王嘉蔚氏(文学部人文学科4年)、熊文茜氏(経済学部経営学科3年)、報告者の円光門(法学部政治コース3年)の計5名である。藪本器氏(教養学部教養学科4年)はレジュメ提出のみの参加となった。
第2回となる今回は、趙汀陽著『天下的当代性―世界秩序的実践与想像』(中信出版集団、2016年)の第2章と第3章(133~281ページ)を扱った。第1回にも増して多くの論点が提示されたが、それらを包括的に記すことは困難なため、本稿では「民族」と「ゲーム理論」という2つのトピックに絞り、それぞれの議論を報告したい。
「民族」について。藪本氏は、「中国は民族国家ではない」という筆者の主張は近代以降の中国が「中華民族」概念の創造などを通じて現代国家へと変貌を遂げてきた事実と矛盾するのではないかという疑問をレジュメ上で提示した。これに対して熊氏は、本書において中国とは「中原逐鹿」と呼ばれる権力闘争に参加した人たちが協働してつくり上げてきた国であるとされており、地理的な境界を問わずこれまで「中原逐鹿」に参加した人々は全て「中華民族」に含まれるという点で、中国は民族国家と性質を異にすると考えられるのではないかと応答した。また、中国出身の両親を持つという孔氏は、日本の政治家が「日本国民の皆さん」と呼びかけるのを聞いても何とも思わないのに対し、仮に「大和民族の皆さん」と呼びかけるのであれば自分は疎外感を覚えるだろうと述べ、「民族」という語にはどうしても排他的な響きを感じざるをえないと話した。この点を受けてヴィクトリア氏は「民族」という漢語の曖昧さを指摘し、「中華民族」の「民族」はethnicityではなくnationと訳した方が適切であると考えられるため、「大和民族」とは違うニュアンスを持つであろうと補足した。
「ゲーム理論」について。熊氏は、筆者が天下体系を説明する際に頻繁にゲーム理論を援用する点を問題視した。熊氏いわく、ゲーム理論をはじめとする経済学的な枠組みは、資源の希少性という前提の下に人々の欲望を満たすための分析手法であるから、時空間の有限性を想定しない天下体系を記述するという本書の意図に適さないはずである。王氏もこれに同意し、ゲーム理論は本来天下体系のアンチテーゼであるべきだと述べ、孔氏もまた、ゲーム理論は軍拡のジレンマなどといった安全保障政策を説明するための道具立てであるから、筆者の主張する天下体系よりも現実の主権国家体系により親和的なものであると述べた。これらの問題についてヴィクトリア氏は、ゲーム理論という実証的な枠組みを導入することで、筆者は自身の哲学理論が実証研究でも有効であると示したかったことが原因だったのではないかと推測した。
この他にも、華夷思想には異民族包括主義的な「華夷之変」と異民族排斥主義的な「華夷之辨」の両側面が実際存在していたにもかかわらず、筆者は前者ばかりを強調しすぎているのではないかという指摘が王氏からなされ、支配者と被支配者の二項対立が固定化されることなく、両者が流動的に絶えず入れ替わっていくという「中原逐鹿」のあり方は、今日のアイデンティティ・ポリティクスが抱える問題を打開する要素を秘めているのではないかという意見が円光から提示されるなど、論点は多領域に及び、活発な議論が2時間以上に渡って展開された。
今回を以て本書を一通り読み終えたわけであるが、次回は石井剛教授(総合文化研究科)をお招きし、これまでの議論で解決しきれなかった疑問についてご教示いただく機会を設定したい。開催は今月下旬を予定している。
報告者:円光門(EAA「東アジア教養学」プログラム第1期生)