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2023.06.09

【報告】シンポジウム「新しい啓蒙のための哲学と倫理」(“Philosophy and Ethics for New Enlightenment”)

2023年5月9日(火)15:00より、駒場キャンパス18号館ホールにて、東京大学東アジア藝文書院(EAA)主催、共生のための国際哲学研究センター(UTCP)共催で、“Philosophy and Ethics for New Enlightenment”(新たな啓蒙のための哲学と倫理)が開かれた。これは、マルクス・ガブリエル氏をはじめとするドイツのボン大学のニューインスティテュート関係者の来日に伴う一連の企画のひとつである。開会の挨拶で、清代の中国哲学を専門とするEAA院長の石井剛氏(東京大学)は、ドイツ留学経験のある大西祝の仕事や、中国の1910年代、1920年代の啓蒙運動を振り返り、いま、東アジアにおける「啓蒙」を教養=liberal artsと結びつけて新たに問うことはどのように可能なのか、駒場で議論する歴史的意義を強調した。つづいて司会の國分功一郎氏(東京大学)が、カントの「啓蒙とは何か」(1784)の冒頭で、啓蒙とは未成年状態=マイナーであることから脱出させることであるとされていた文脈を再読した上で、1990年代に多文化主義が台頭するなかでこのカント的啓蒙が批判されていたことを振り返り、どうやっていま新しくこのテマティークを展開できるのかと問題提起した。

最初の発表者であるクリスティアーネ・ウーペン氏(ボン大学)は、パンデミックであらわとなった科学技術がどのように人びとに語られるのかというストーリーの問題があることを指摘し、公共政策もまたストーリーの語り手であるということ、そのうえで、たえず複数のストーリーを問い直し語り直すことによって新たなアイディアを科学技術が生み出しうるという視点を述べた。つづいて王欽氏(東京大学)は レオ・シュトラウスによるドイツ・ニヒリズムをめぐる講演を18世紀の啓蒙哲学と結びつけ、世論の急進化を防ぐ可能性として、とりわけ若者にとっては、カントが述べるところの「趣味(taste)」が新しい啓蒙の対象になるのではないか、と述べた。最後、ガブリエル氏は、ファクトにかんする中立的な概念が必要であり、普遍的なモラル・ファクトをめぐる考えを述べた。そこから触発された登壇者間でのやりとりでは、終末医療や動物倫理といった具体的な事例に議論が及び、普遍性の共有可能性や不可能性についても問われた。カントにかぎらず、いわゆる西洋哲学に限定されるのではまったくないかたちで、東西の区分もまた越えながら新たな啓蒙を時代が求めているのは、なぜか。それは、過去とおなじく、いまもまた、危機の時代であるからだろう。だとすれば、いったい、誰による、誰に対する、誰のための、どのような啓蒙が求められているのか。それは今日の世界規模の、宗教的なものへの回帰、世俗批判の動きと、どのように異なりうるのか。新しい啓蒙を追及し実現するにあたって、大学の役割はどのようなものたりうるのか。こうした問いを、幾度も愚劣に、しかし切実に繰り返されてきた普遍主義の安直な理想化にけっして与することなく、現実に即してラディカルに考えることが、考えつづけることが、喫緊の課題であることが明らかになった時間であった。登壇予定であった斎藤幸平氏(東京大学)が不在であったのはきわめて残念だったが——戦時経済における自由と進歩の再定義をめぐる提題が予定されていたと聞いている——、ほぼ満席の熱気ある会場から、予定の時間を超えても学生から率直な質問が複数あがり、若い世代による批判的思考の言葉が新たに生まれてくることが予感され、貴重な機会だった。UTCPセンター長の梶谷真司氏(東京大学)が、駒場における国際交流の歴史に連なる企画として、コロナ禍を経ての、今回のシンポジウム開催の意義を強調していたが、今後、さまざまな人的移動がさらに復活してゆくなかで、先人たちの数多の取り組みを引き継いで、他者と対話をする態度がいっそう求められるだろう。

報告:髙山花子(EAA特任助教)
撮影:郭馳洋(EAA特任研究員)