いと忘れやすきひと
前野清太朗
このたび2021年度末の任期満了をもって退職し、重ねて東京大学を離れることになった。個人的な思い入れからいえば、この教養学部のキャンパスには15年近くお世話になった。実の故郷に次ぐほどに馴染んだ場所から立ち去るに際しては、やはり何かしらの感慨なしにおれない。キャンパスの中の細い抜け道はたいがい頭に入っているし、各専攻や研究室所属の図書室もあらかた訪ねてしまった。おそらく新しい世界に移る潮時なのであろう。東アジア藝文書院に着任したのは2019年10月であったから、現在の駒場オフィスにお世話になったのは都合2年半である。お世話になった日々は決して短くはない。さりとて長いということもできない。2年半の任期のなか、まことさまざまな業務を経験させていただいた。大学の大きな組織がもつ組織規律のありようを垣間見ることができた。学生身分であったころ、見えなかった事務職員の方々の熱意や底力には、ひたすらに頭が下がる。私個人の能力・経験の至らなさゆえに指導を頂いたことも決して少なくはなかったが、実践的な業務に触れた経験は確かに私の糧となった。
2年半の記憶の糸を行きつ戻りつしていくと、途中に1つ、忘れがたい記憶の束がある。2020年度の秋学期に、教養学部前期課程において開講させていただいた全学自由研究ゼミナール「人文–社会科学のアカデミックフィールドを体験する」がそれだ。教養教育高度化機構の中村長史先生とのコンビで運営したこの授業では、5人の院生・ポスドクの方々のお力を借りて、長らく温めていた新しい授業スタイルを実践した。いわゆるオムニバス講義とは、各回を異なる講師が受け持ち、それぞれの専門分野について講義する形の授業形式である。異なる専門の講義を1学期内に聞くことができるので、学生からの人気は高い。欠点は、各講師の受け持ちが単独回であるため、講義内容の学生からのアウトプットの機会を設けにくい点である。そこで全学自由研究ゼミナール「人文–社会科学の~」では、担当講師に2週連続の「1セッション」を受け持ってもらうこととし、1週は講師からのレクチャー、もう1週は学生司会によるディスカッションとの構成をとった。第2週目のディスカッションで、学生の意見を相互にシェアしつつ、議論の交通整理スキルも高めてもらおうとの狙いだ。大規模な授業ではなかったが、これまで面識のなかった院生・ポスドクの方々と知遇を得、受講してくれた学部生たちからは毎回の熱心なコメントを受け取った。小さな授業で得たささやかな成功は、私の大きな誇りだ。講師役の機会を通じて知遇を得た院生・ポスドクの方々とは、今でも各種のイベントでお世話になっている。
業務と教育の思い出は尽きないけれども、研究の話に筆を移そう。着任から満1年ばかりは、ひたすらに職務へ励むあまり全般的な記憶が定かでない。1年ほどたって、少しずつ周囲に研究上のアンテナを張り広げることができていったように記憶している。東アジア藝文書院と連携する先生方、および同僚たるスタッフの方々からは多岐にわたって研究上のインスピレーションを頂戴したのはいうまでもない。ただ、最も大きく影響を受けたのは、私の研究活動における「柱」の部分であったかもしれない。はじめ私はミクロな歴史学を志し、結果フィールドワークに依拠した社会学的な農村研究にたどりついて現在に至る。業界の外の方々からすれば、何とも理解しがたい事柄であろうが、歴史学と社会学とでは、同じような対象を扱っているように見えても、研究の起点も終点もずいぶん異なっている。過去を見つめる学問と、現在より後を見据える学問との間にあって、私は長らく揺れ動いてきた。
東アジア藝文書院での私の任期のほとんどは、悪疫とともにあった。あるときはこの悪疫にまつわるイベントのサポートに入り、ある時は自身が報告者として、語り・聞き・考えるなかで、記憶の継承ということを、私は自身の研究の根源の「柱」として次第に見出すようになった。この2年間における国内外の集団的な対処の状況は、今でも日時刻みの年表で細かに辿ることができる。ところがその日時刻みの年表の一瞬一瞬で感じ来った自身の喜怒哀楽の心を、私は一向に思い出すことができない。同じように11年前の今頃、関東壊滅の危機に怯えながら、ラジオを付けて友人同士眠ったあの夜の記憶は私の中に残っているが、その時の心情は口に出した瞬間突然に抽象的な単語に変わってしまう。このようなことも、東アジア藝文書院のコミュニティの中にあって考え続けてきたゆえに、ようやくに思い当たり、かつ思い出すことができたのだ。
途切れ途切れな2年半の記憶を振り返ってみれば、どうやら私の中では、教育と研究の2つの要素がますます深く結びつけられたようだ。社会学の古典が指摘してきたとおり、教育とは「社会化」の一形態である。同時に、自由かつ民主的な社会にあっては、「社会化」を担う社会そのものを変えていくのは社会の構成員に他ならない。だからこそ、今からここから、長い時間をかけなくてはならない。私たちが余生を投じるだけの、価値はそこにある。
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