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2022.08.02

【報告】映画『籠城』上映会@山形大学&山形ドキュメンタリーフィルムライブラリー視察

2022年7月23日(土)16:00より、山形大学にて映画『籠城』上映会を行った。もともと映画『籠城』制作の途中で、山形国際ドキュメンタリー映画祭への応募作品を収集・保存する山形ドキュメンタリーフィルムライブラリーへの視察を予定していたのだが、デルタ株の流行をはじめとする諸々の事情により延期を余儀なくされていた。その企画が、念願かなって上映会とともに行う形で実現した次第である。実現に尽力くださった方々に感謝したい。

上映会は山形大学人文社会科学部の柿並良佑氏の研究室との共催というかたちで行い、同学部で映画研究を専門とする大久保清朗氏も来てくださった。また、翌日に訪問をすることになるフィルムライブラリーの日下部克喜氏も視聴くださった。きわめて小規模の上映会であったが、大学内の上映会では浮かび上がらなかったドイツロマン主義的な視点からの言葉が生まれ共有される貴重な時間になった。アフタートークについては、後日書き起こし記録を公開する。

 

7月24日(日)は朝一で山形ドキュメンタリーフィルムライブラリーを訪問し、日下部氏から20,000本以上にのぼる膨大な映像アーカイブ収蔵の現状を実地で教えていただいた。興味深いのは、3.11の震災の記憶をめぐる独自の映像アーカイブや、映画祭の創設を牽引した小川紳介の諸作品も視聴できるように整えられていたことである。上映、制作、研究といったさまざまな要素を複雑に交差させながら、40年以上、山形という場から、映像の力が問い直され、発信されつづけている。

わたし自身は、大重潤一郎監督『小川プロ訪問記』(1981)における大島渚による小川紳介へのインタビューが小川紳介・ 彭小蓮『満山紅柿』(2001)の冒頭とエンディングでも引用されていたことが印象に残った。そこには、もはやドキュメンタリーであるとかいった区分けを越えて、フィルムによって、蝋燭が消えるように自然に消えてゆくものを撮ること、集落にせよ文明にせよ、なにかが滅びゆくときの質、輝きをとらえようとする生命そのものへの執念が感じられた。厳しい状況において、あたたかくわたしたちを迎え、貴重な学びの機会をくださった山形の方々に感謝したい。

 

報告:髙山花子(EAA特任助教)
写真撮影:齊藤颯人

 

参加者のレポート

山形市は街全体が山に取り囲まれている。山形駅と山形城址を中心にして、きれいに碁盤目状に区画整理された道路の先には、山々が大きく迫ってみえる。制作チームを迎え入れてくださった柿並良祐先生は、その山々のひとつ蔵王連峰の麓にお住まいで、朝晩は寒くらいです、とおっしゃられた。学外ではじめての『籠城』の上映会は、昼間でも東京よりいくぶん涼しい風の吹く夏の午後、山形大学の校舎で、行われた。
山形滞在一日目の上映会で、多くのコメントをくださったフランス思想をご専門にされている柿並先生、映画研究をご専門にされている大久保清明先生は、お二人とも駒場の表象文化論コースのご出身だ。お二人は私よりも随分学年が上で、お会いするのははじめてだった。それでも、彼らが表象の先輩であるということが、ふつうなら相当の時間をかけて切り崩していくことになるはずの距離を一気に縮めたと思う。駒場で研究の時間を過ごしたという共通の経験、もちろんそれぞれがまったく異なる経験をしたことは確かなのだけれど、その差異や隔たりを吹き飛ばして、共有している経験の核のようなものを、リアリティのあるかたちで思い描きながら対話をする、ということが、上映後の質疑応答やその後の雑談の時間にはあったように思う。まったくはじめて出会った人と、それなのにすでに共有されている経験、のようなもの。『籠城』の主題のひとつでもあったものを、べつのかたちで実感する時間でもあったように思えた。
滞在の二日目は、一日目の上映会にも参加いただいた山形国際ドキュメンタリー映画際の日下部さんの案内で、山形ドキュメンタリーフィルムライブラリーを訪問した。このフィルムライブラリーは、映画祭のすべての応募作品を収蔵管理し、作品を貸出し、しかも貸出料の50%を制作者に還元する。ドキュメンタリー作品に特化してこのような活動を行なっている団体は国外でも例がないという。ジョナス・メカスが60年代から晩年まで行なった前衛映画を支える活動にも通じる、映像文化を支える素晴らしい活動だと思う。映画について語ろうとするとき、「ドキュメンタリー」という言葉は、考えれば考えるほど、確定的な定義が不可能であることがわかってくる、やっかいな言葉だが、山形国際ドキュメンタリー映画祭は、その名称に「ドキュメンタリー」という語を含ませていることが引き金となって、「ドキュメンタリー」や「フィクション」という領域を軽々と超えて映像の本質を問う際立った作品が多く集まる。ペドロ・コスタやアピチャッポン・ウィーラセクタンの作品はそのうちの筆頭だろう。近年この映画祭から配給がつく映画が増えているとおっしゃる日下部さんの言葉に、ドキュメンタリー的な資質を内包しながら広がっていく映画の懐の深さを思った。

一之瀬ちひろ(総合文化研究科博士課程)

 

2022年7月23日(土)、山形大学で『籠城』上映会を行った。はじめての学外上映はこの上なく刺激的なものとなった。本会の実現に尽力してくださり、作品について即興的に的確なご応答をしていただいた柿並良佑先生には、あらためて格別のお礼を申し上げたい。また、上映会の参加者で、大久保清朗先生には映画史や撮影技法などの観点から具体的なショットについて言及していただき、日下部克喜さんには本作の特徴であるドキュメンタリーとフィクションのあわいを十全に汲み取っていただいたこと、心より感謝申し上げます。
翌る日には、山形ドキュメンタリーフィルムライブラリーを訪問した。20,000本を超える作品数を収集し保存する収蔵庫や、映写機などのある試写室の裏側までご紹介いただいた。深い感動とともに、これほど充実した設備と精神を持つフィルムライブラリーに今まで足を運んでこなかった自分を恥じた。ビデオブースで映画を鑑賞できるということで、わたしはマリーナ・ゴルドフスカヤ『アルバト通りの家』(1993)ヴィターリー・マンスキー『青春クロニクル』(1999)など、いくつかの貴重な作品を観た。とても充実した時間を過ごした。このライブラリー試写室でいつか『籠城』を上映することができたなら幸福なことだろう。今回の出張は、まちがいなく作品にとって良い出会いを生むものになったことと思う。

小手川将(総合文化研究科博士課程)

 

コロナ禍という言葉を弄すること自体がもはや禍々しく不正だと思われるような状況下で、山形大学および山形ドキュメンタリーフィルムライブラリーを訪れる機会に恵まれた。山大では『籠城』上映会、ライブラリーでは収蔵庫の見学や収蔵作品の鑑賞をすることができた。
学外での上映はこれが初めてであり、これまで大学に「籠城」してきた(わけではないとはいえ)作品が、このたび当然たどるべき旅路の一歩目を踏み出し得たことをまずは言祝ぎたいし、その旅路に連れ立ってゆけたことに、時間を経たいまなお静かな喜びを覚えている。
しかし喜んでばかりもいられない。これまでも、作品の行く末についてはたびたび制作チーム内でも議論があった。例えば、撮影データの保存管理のあり方等について。フィルムライブラリーでは、ボーンデジタル作品が再生機器依存であるがゆえに生じる保存方法の未確立、従来の保存媒体補修に係る専門人材の不足など、おそらく日本の(世界の?)フィルムアーカイブ一般が抱えている問題に話が及んだ。
ある時代に生まれた作品は、その時代の刻印を受けているはずである。そのわずかな徴でも、後世に伝えることが歴史への責任だとすれば、作品のライフサイクル、あるいはライフステージについて責任を負うこともまた、制作の一環と言えるのかもしれない。山形土産は、とんだ宿題であった。

日隈脩一郎(教育学研究科博士課程)

 

山形を訪れるのは大学一年生の部活の夏合宿以来で、非常に懐かしかった。今回、山形大学で映画『籠城』を観て、いくつか考えたことがある。一つは、『籠城』は東京の映画だ、ということだ。河合隼雄と吉本ばななの対談集に「東京人」という表現がでてくる。「江戸っ子」ともまた違って、東京を日本の中心として、いわゆる近代主義を日本人なりに実行しようとする人々、というニュアンスである(面白い対談集なのでぜひ原著を参照してほしい)。「何々しなければならない」と反復する一高生は、とても東京的である。拙い理解だが、これは当日のアフタートークで、ハイデガーとニーチェの対比を用いて指摘された内容に重なるだろう。
しかし、一方でそのような理解に収束しえない様々な解釈や物語にひらかれた「外部」を『籠城』は多く含んでいる。それは例えば劇中の音楽であったり、地下道や銀杏並木などの撮影場所が持つ独特の雰囲気(磁場)であったりするが、際立つのは一高生の写真である。作品の終盤では一高生個々人の顔写真がクローズアップされる。その屈託のない笑顔や、若者らしい堅さを含んだ表情を前に、東京帝大に進学する当時のスーパー・エリート、軍国主義の時代を生きた若者という理解を超えて、昭和前期という時代性を帯びながらも、しかし彼らが生きた様々な人生について私は考える。一高生の写真は本物の、現実にこの世に存在していた人々の写真であり、だからこそより強く私に訴えかける。これはドキュメンタリー作品が持つ重みであると思う。

金城恒(EAAユース1期生・2022年教養学部卒業生)