2023年6月10日(土)、国際開発学会(JASID)第24回春季大会が秋田県・秋田文化創造館で開催された。そこで、JASIDの人材育成委員会とEAAは、「開発と文学:テキストに開かれる経験の可能性」というラウンドテーブル(RT)を共催した。登壇者は、企画責任者の汪牧耘(報告者:EAA特任研究員)、発表者の松本悟氏(法政大学)、崎濱紗奈氏(EAA特任助教)、渡邊英理氏(大阪大学)、司会者の大山貴稔氏(九州工業大学)、コメンテーターの金景彩氏(慶應義塾大学)、木山幸輔氏(筑波大学)とキムソヤン氏(韓国・ソガン大学)の計8名である。
本RTの出発点は、国際開発研究における経験の記述についての疑問にある。国際開発の業界では、開発による被害や負の影響を避けるためにも、開発による成功・成長の適応範囲を広げるためにも、「知識・経験の共有」や「過去から学ぶ」ことの必要性がしばしば強調されてきた。日本においても、自らの開発経験・援助経験に着目し、その効用や価値を実証的に打ち出そうとする研究は少なからずある。こうした動きは、近年の援助競争を背景に、ますます活発になっているようにも見受けられる。
しかし、そもそも「開発経験」とは何だろうか。さらに言えば、私たちは研究者として、過去の開発事象を「経験」として抽出し、それを記述・伝達するということが、どのような意味を持つのか。これまでも多く指摘されてきたように、開発は、政治的・経済的な力関係の影響を大きく受ける分野でもあり、開発を研究することは、いわゆる「中立性」を、保ちがたい側面がある。たとえ「御用研究者」でないとしても、研究を行う上の倫理問題やジャーナル共同体の規範が、記述できる開発経験の幅を制限していることも否定できない。
それでは、どのようにすれば、既存の開発研究における経験のあり方をより豊かなものにすることができるのか。 「開発」というテーマと「研究」というアプローチによる立場の限界を克服するために、様々な議論が行われてきた。なかでもここ10年、開発研究においても、外的要因や学術的規範によって排除された問題と現実を発見するために、「文学」が持つ可能性が脚光を浴びるようになっている。先行研究において指摘されてきたように、開発に関わる中心的な問題(central issues)を表現する上で、主観性や架空性がより許されている文学作品は、学術研究や政策研究よりも「優れている」だけでなく、より多くの読者に届いており、したがって社会的な影響力も強い。実は、文学に限らず、音楽、映画、ラジオといった表象文化が開発研究の素材としてだけではなく、他の分野でも研究の素材として、または教材として活用される例が見られる。
このような先行研究による文学の活用は示唆に富んでいる一方、文学の内なる視点が抜け落ちているのではないかと考えられる。つまり、これまでの多くの研究は、開発学に関わる研究者が自らの学問分野の問題関心を前提としながら、文学に接近しているものである。それに対して、本RTは、開発研究による狭義的な文学の一方的利用ではなく、より広い意味で「開発」と「文学」の関係性を問い直す議論を試みるものである。
具体的には、次のような3つの発表が行われた。まず、松本氏は「開発研究者はどのように文学(フィクション)を読むのか——開発と文学(フィクション)の接点」というテーマで、文学作品を通して開発を学ぶ可能性に焦点を絞り発表を行なった。開発研究者は、どのような文学を読んでおり、いかなる角度でそれらを教育に活かしているのか。松本氏は、大学生時代に南北問題を考える際に読んだ作品、自分が担当する授業で使った作品、NHK記者時代に自身が取材し作成した作品を踏まえながら、「フィクション」を作る・使うことの特徴を分析した。文学作品は論文と異なり、問い・調査方法・根拠・結論を明確にすることが強いられていない。「ありえること」をより自由に提示できるため、考える材料を与えてくれる。一方で、こうした文学の道具化、すなわち開発関連の部分だけを切り取るという読み方の問題や、「フィクション」を具体的な行動・実践に繋げようとする際の限界も感じたという。最後に松本氏は、「開発のための文学」、「開発に関する文学」、「開発を考える文学」という3つの分類を示し、本RTへの問題提起を示した。
崎濱氏の発表は、「文学者による開発とは何か——近代日本の「文学」実践と「新しき村」」というテーマで行われた。日本の「近代文学」は、「文明開化」に伴う政治的・経済的変革や生産・生活様式の変容の中で誕生したものだといえる。社会との一定の距離を取りつつも、社会が経験する様々な葛藤を記述する方法であった。近代が抱える諸矛盾をどのように克服するかという問いに端を発する実践として、文学者による共同体建設の試みが多く展開されてきた。白樺派の文豪・武者小路実篤(1885-1976)による農村開発の実践・「新しき村」はその一つであり、規模や形態が変わりながらも1918年から今日まで存続している。その批評性に対する疑念が指摘されながらも、「新しき村」が目指してきた個を尊重しながら自然や他者と共生するという理想像は、図らずも一時期の中国や沖縄にも影響を及ぼした。「事実」と「真実」の間に揺さぶりながら批評精神を鍛えてきた文学は、社会に一石を投じる力を持ってきたことが伺える。
最後、著書『中上健次論』(インスクリプト、2022年)において「(再)開発文学」という方法を打ち出してきた渡邉氏は、「開発文学は可能か」を題名に、中上健次の生い立ちを振り返りながら、その文学作品から(再)開発を読み取る自らの試みと所感を述べた。(再)開発とは、中心/周縁、都市/地方、北/南などの二元的な秩序に依拠する近代的「開発」と、越境的な資本が先導し、「中心/周縁・都市/地方・北/南」等の相互嵌入やグローバルな位相で投資的消費的に展開される現代的な「再開発」を同時に意味する。中上は、和歌山県新宮市の被差別部落を背景としながら、「路地」という空間の開発をめぐって重層的な書き込みを行なった。(再)開発という「コンテキスト」と文学という「テクスト」に批判的な視点を投げかけ、それを持続的に自己嫌悪・自己言及的に問い続けることは、「開発と文学」を論じる出発点だと考えられる。「開発と文学」は合わせ鏡のようになることで、両分野における「フィクション」をより広義的考察し、「現実」と「虚構」の互換性・可変性に注目する必要がある。
上記の発表終了後、ラウンドテーブルの司会者として大山氏が場を取り仕切り、金氏、木山氏とキム氏がそれぞれ朝鮮文学・植民地文学研究、ハンナ・アーレントの論述と文学地理学の蓄積から、多様な視点を共有した。出版資本主義の産物や開発を推し進める道具でもあった文学が、なぜ国家・資本を批判する媒体となり、さらに人間性・人文の素養を担う使命を負うようになったのか。統計的含意への抵抗としての文学の可能性とは何か。文学を生み出す「空間・時間」はどのような力学で地理的に展開してきたか。多岐にわたるコメントから、学問分野の蛸壺化によって見過ごされてきた「開発と文学」の関係性を回復させるヒントをいくつか得ることができた。
「開発と文学」の議論を2時間に抑えることは至難であった。RTが終了した後も、会場からは多くのコメント・質問が届いた。例えば、「開発(development)と文学」があるなら、「発展(development)と文学」もあるか。地域における開発の「発達度」と文学の「発達度」の関係性をどう考えうるか。開発には「正解」が求められているだけではなく、入試試験に見られるように、「正解がない」文学にも「正解」が求められる。「開発と文学」から、「正解がない」中で理解・実践を試み続けるヒントがないか。RTのオーディエンスのほとんどは開発関連の専門家や研究者であるが、それぞれの文学への想いや文学的体験に関して、情熱を込めて語っている様子は印象深かった。
「開発」も「文学」も、輪郭の曖昧な分野だといえる。議論を通して、こうした両分野を「現実/フィクション」「実践的/実践的でない」という印象論で切り分けることができないことが明らかになった。それとともに、両分野のより深い関係性も浮かび上がっている。「開発」を大地に書かれたテキストとして批評すること、「文学」を多重に開発された空間として分析すること、そして「開発と文学」を現実と虚構を入れ換える社会的装置として再認識することは、登壇者同士の研究領域の広がりだけではなく、世界を捉える視点を特定の方法論から解き放つ上にも有益であろう。
本RTは、EAAの「開発と文学」研究会の試行錯誤を生かしながら、異なる分野の研究者同士が同題をめぐる問題意識を共有し、言葉やテキストという経験伝達の媒体が持つ可能性について議論を交わした場となった。国際開発学会においても、「文学」というものを正面から取り扱おうとしたのは本RTが最初であり、分野間の対話に踏み出した第一歩として大きな意義を有していると考える。
(報告者:汪牧耘(EAA特任研究員))