「藤木文書アーカイヴ」の10ケ月
宇野瑞木(EAA特任助教)
「藤木文書」は、東京大学教養学部の歴史学部会に長らく保管されてきた段ボール箱一つ分の未整理資料であった。2019年夏前から高原智史さんと整理をし始めて、教養学部の日本史の教授であった藤木邦彦の遺した1943年頃から45年頃にかけて一高特設高等科生に関するまとまった資料群であることが判明した(その他に、藤木にかかわる戦後の教養学部時代のものも含まれる)。
歴史学部会の山口輝臣先生によれば、その存在自体は以前から知られており、何度か中身について吟味されたことはあったが、本格的に調査されることはなかったのだという。それは、ひとつには、戦時下の中国人留学生に関する資料であることから扱いにくい素材であったということがあったに違いない。つまり、あまりそのあたりの難しさを認識していなかった専門家ではない私達であったからこそ、ひも解くことができた資料群であったのではないか、と今あらためて振り返って思う。
このように始まった未整理資料の調査・公開の作業を、2021年6月より本格的なプロジェクト「藤木文書アーカイヴ」として起ち上げることとなった。EAAらしく、それぞれに異なる専門性を持つ個性豊かなメンバーが集まってくれた。そして、私たちは、その目標を、閲覧公開ができる形に整えることと、そのお披露目として展示会を開催することに定めた。いま、本プロジェクト顧問の石井剛先生、田村隆先生、折茂克哉先生をはじめとする先生方、駒場博物館の坪井久美子さんをはじめとする職員の方々、EAAの皆さん、そして一高卒業生や関係者の方々、寄贈をしてくださった藤木成彦さんなどのご助力を得て、その目標を実現に漕ぎつけることができたことを、心より有り難く感じている。また文書整理と保管に当っては、その具体的な方法や事例について東京大学文書館の森本祥子先生、秋山淳子先生にご指導いただいたことも記しておきたい。ここにすべての方のお名前を挙げていくことはできないが、関わってくださった方々に深く感謝申し上げたい。
展示については、大変有り難いことに、駒場博物館の半分のスペースを借りられることとなった。しかし以前にEAAが企画した101号館のパネル展示とはスペースの規模がかなり異なる上、実物展示も実質初めてであり、折茂先生の助言をその都度受けながら、手探りで準備を進めてきた。しかも展示の主役となるのは、戦時下の脆い薄茶色の紙ばかりで、展示に最も向いていないと言わざるを得ないモノたちである。これをビジュアル的に魅力的に見せることはなかなか難しいと思われた。しかし、「藤木文書」を通して、所謂「一高」のイメージとは異なる、留学生の視点から眺めた「もうひとつの一高」として見せるという明確な展示のビジョンが得られた時に、奇をてらうことなく、そのまま資料の価値を示すことで十分であると確信した。そして、メンバー全員で資料の内容を忠実に表現することへと素直に向かうことになったのである。私としては、特に、50通ほどの藤木宛の手紙と旅行許可願から、1944年から45年にかけての特高生たちの移動の足取りをたどり、大陸を含む地図に落とし込んでいく作業が印象深かった。煩雑な作業であったが、メンバーで協力しながらデータをどう見せていくか考える過程は楽しくもあった。
かくして、ひとまずの役目を終えようとしている本プロジェクトの10ケ月を振り返るに、私のなかに浮かぶのは、歴史の肌触りのような感触を得ながら、若いメンバーと一緒にあれこれと思考を巡らせ、謎解きをしていくような時間と場を共有できた悦びである。
勿論、難しい時代の資料であり、私たちの手つきは危なっかしいところがあるのは承知している。そうした懸念もあり、最後にお忙しい中で恐縮ではあったが、専門家の荒川雪先生(東洋大学)と川島真先生(東京大学)に確認をお願いした。したがって、致命的な歴史誤認は避けられたのではないかと思うが、完全に反映できたわけではないこともあり、誤りが残っているとすれば、その責任は私にある。しかし、そうした拙さや問題も含めて、この「藤木文書」が展示とともに公開されることで広く活用されていき、さらに豊かに研究が展開されていくための役目を果たせれば幸甚である。
以下に、それぞれのプロジェクトへのかかわり方について記してもらった。これを以て、わたしたちのプロジェクトの一旦の区切りを示すこととしたい。
藤木文書で触れた物と人
高原智史(EAAリサーチアシスタント)
まだ古い段ボール箱に入ったままの藤木文書と初対面し、整理が始まったのは、2019年の4月にEAAのRAとなってから間もなくのことだった。それまで一高の『校友会雑誌』を読んで、そこから思想史を構想することを試みていた筆者だが、『校友会雑誌』はPDF化されて提供されていることもあり、生の資料に触れるということがほとんどなかった。それがEAAに入って、一高の研究プロジェクトを進めるに当たり、駒場博物館所蔵の資料や藤木文書に触れることで、特に戦時中の資料など、触れればすぐ崩れてしまうような紙を相手にしていくことで、資料の文字通りの手触りを感じられることとなった。
触れたのは物だけではない。ただ『校友会雑誌』を読んでいるだけでは出会うことのなかっただろう方々とも、藤木文書を通じて触れさせていただくこととなった。藤木邦彦のご子息である成彦氏の他、一高を卒業された方など、このプロジェクトを通してインタヴューさせていただいた方は数多い。また、はじめEAA特任助教の宇野瑞木さんとほとんど二人で始まった藤木文書の整理は、メンバーを順次拡大しながら「藤木文書アーカイヴ」プロジェクトとなり、その他、内外からご支援いただいた方が数多くおられる。
物という面からも、人という観点からも、自分自身の研究の幅を、藤木文書プロジェクトを通じて広げてもらったと思う。これから文書が公開され、利活用されていくなかで、藤木文書が人と人との更なる結節点となることを祈る。
悦びとつながり
宋舒揚(元東京大学大学院総合文化研究科博士課程)
この2019年の秋に一高プロジェクトに関わってから2年以上の月日が去っていた。一高に関して何の知識もないわたしが、いきなりその時代にタイムスリップしたかのように、史料の海(駒場博物館の収蔵庫)で迷子になりながら自由に泳ぎ、「知を求める」という幸せを噛み締めていた。
前回の「一高中国人留学生と101号館の歴史展」とは違い、「藤木文書アーカイヴ」は一つの文書群を一から整理することから始まった。生の史料と向き合い、整理、目録作成、そして公開利用に至るプロセスを経験できることは、生粋の歴史学徒にとって、それ以上の悦びはない。また、ありがたいことに、文書史料にとどまらず、元一高生の方々のインタビューなどを通じて、生身の「語り」を聞くこともできた。その成果を論文ではなく、展示という形で発表することで、史料と触れ合う悦びと時代・地域を超えたつながりをより広く共有できたら幸甚である。
プロジェクトの最初からご一緒させていただいた宇野さん、高原さんを始め、EAA・駒場ならではのメンバーに恵まれた。一高関連だけでなく、各分野の知見が常に良い刺激を与えてくださった。ここまで掘り下げた文系の共同研究は初めての経験であり、改めて駒場という場所が持つ意味を再認識させられた。「藤木文書アーカイヴ」、そして一高プロジェクトを通じて生まれた悦びとつながりに、この場を借りて深く感謝したい。
「藤木文書アーカイヴ」に参加して
横山雄大(EAAリサーチ・アシスタント)
2021年6月より私はこのプロジェクトに参加した。応募動機としては、戦時下の留学生事業という中国人留学生史研究上の現在の最先端を取り扱うことが出来るからであった。プロジェクト内における主な自分の役割は、自身の研究上の専門領域を反映して政治面での日中関係の考察が中心であった。
採用後プロジェクトの作業はまず資料の整理、撮影と内容確認、つまりアーカイヴの構築からスタートした。その際私が注目したのが、抗日活動に参加したために逮捕された特高生についての文書であった。そのため、アーカイヴ構築に続く作業である博物館展示においても、この資料に注目して準備を進めた。また、多くの特高生は戦後中華人民共和国への帰国を選択したが、戦前の抗日活動から戦後の左派活動、さらには帰国後の対日工作までの過程について展示を担当した。
本プロジェクトを通じて、当初の研究関心を満たすことは勿論、文書整理や展示準備といった通常の学生には参加が難しい教育や学務にも関わる作業に関与できたことは、今後の研究者としてのキャリアにも必ず役立つであろう。
東アジアへの歴史、そのプロセスのプロローグ
日隈脩一郎(EAAリサーチアシスタント)
「歴史とは現在と過去との間の終わりなき対話である」とは、E. H. カーに帰されるセリフとしてよく知られている。現在は、過去に向き合うことで相対化され、過去もまた、移りゆく現在の視点からつねにすでに、変じて見える。実に歴史とは、そこに何か厳然たる実体や対象があるのではなく、プロセスそのもののことだと言えるかもしれない。
「藤木文書アーカイヴ」のメンバーとして過ごしたこの半年間あまりはまさに、この過程としての歴史に身を置いた期間だったと思う。本プロジェクトに参加した時点では、「藤木文書」という一群の資料は、いまだ海のものとも山のものともつかないものだった。遺した人の名しか伝えられていない文書群に一点一点あたることが、我々のなしうる最初の仕事だった。
いくつかのファイリングされたまとまりを取り上げ、ファイルの中身を一枚一枚取り出してその内容を読み解き、一点ごとに名前を与えるという作業は、思い返せば勇気のいる作業だった。作業開始後まもなく、アーカイブズ学の語彙に触れ「原秩序維持の原則」を知ることになるが、命名された銘々の資料は、例えば「書簡」として目録上は同じカテゴリーに入れられるとしても、それらが元々異なる封筒に入っていれば、そのことは注記されなければならない。その封筒に入っていたことそのものに、さしあたり我々の考えの及ばない、しかしながらいずれ解き明かされうる意味があるかもしれないからだ。
すでに書かれ、あるいは翻訳された上で公刊されているテクストを読むことに終始してきた者にとって、いわゆる「一次資料」は長らく縁遠いものだったが、そもそも資料が一次であれ高次であれ、資料化という手仕事を踏まえた上で実際に読まれるものになり、しかもそれが重層的な構造を有しているという、ごく当たり前のことに肌身をもって気づけたのは、得難い経験であった。
誰にも読まれることのなかったものが、名前を与えられることによって、つまりある種の秩序の中に投入されることによって、読まれるものに変貌してゆく。カーのものした原文によれば歴史とは “process of interaction between the historian and his facts, an unending dialogue between the present and the past” とある。藤木文書はこのたび、展示の機会にも恵まれたが、これはプロジェクトメンバー一同がその「事実」に向き合って得られた、一義的な読みの提示であって、今後さらに多くの人の耳目に触れ、文書群の性格はいやおうなく変化してゆくだろう。
ところで「歴史」という漢語は、言葉で書き記された過去の出来事の集積という意味をもつ。西洋でもむろんそうだが、東アジアにおいても、この「書き記された」ことに対して注釈を加えるという作業の伝統がある。「東アジアからのリベラルアーツ」を標榜するEAAにおいて、戦前の留学生関係資料が、東アジアを宛先として読まれる可能性に開かれたことは、祝福すべきことだろう。藤木文書の歴史は、まだ始まったばかりである。
眼前のマテリアルへ
髙山花子(EAA特任助教)
映画『籠城』制作の過程で、特高生はもちろん、本科生が1945年にどのような記述を残していたのか、いちばん知りたいその時期の寮日誌はなかった。寮の自治はすでに崩壊していた。それでも、駒場博物館の収蔵庫で1945年の『寮務課日記』に行き当たる。宿直担当の生徒主事の記録である。だんだんとB29の空襲が激しくなってゆくのが印象的だが、1945年3月27日には留学生総合入学試験が施行され、同年7月21日には新入生歓迎会も行われていた様子がわかる。一方、戦禍で駒場キャンパスの受けた被害は、組別時間割綴に如実にあらわれている。1945年7月、8月には、ふだんの教室が消失したためだろう、同窓会館や無声堂が教室とされ、各組で共有されていたことが読み取れる。かくして、5月以降、通常授業の継続は困難となり、終戦後の混乱のなかでは、しばらく本科生と特高生が一緒に授業を受けていた姿さえも浮かび上がる。では、それはじっさいどのようなものだったのか——アクセスできる資料のみからそれを結論づけるのは誠実さにかけるだろうし、だからこそいま眼前にあるマテリアルに実直に向き合う必要性と倫理を感じた、というのが、わずかながら展示準備に参加したわたしの感想である。展示が多くの方の目に触れることを強く願っている。
倫理と想像力
小手川将(EAAリサーチ・アシスタント)
東京大学駒場博物館には、在りし日の一高を記録した数多くの古写真が所蔵されている。明治後期、本郷は向ヶ岡での寮生活の様子から、駒場に校地が移転された後の「新向陵」における年中行事や授業風景まで、一高生活の具体的な様相を知る手がかりとなる古写真の数々を眺めていると、むしろ記録されていない無数の風景のほうに思い巡らされる。主に留学生たちが使用していた特設高等科教室が当時どのような内観だったのか、今ではほとんどわからない。ふだんは教室や寮をつなぐ通路として使用され、戦局が悪化すると避難先となった地下道の様子も、図面や文書から想像するほかない。同じ駒場に位置しながらも決定的に過ぎ去ってしまった一高について知ることの困難を、古写真はより強く感じさせるのである。と同時に、他の資料と併せてみると、写っている光景の背後にある複雑な歴史が、古写真の質感とともに浮かびあがってくるようである。いや、正確に言えば、この歴史の手触りを遺された資料に感じようとしなければならないのだと思う。それがアーカイヴに接する者に求められる誠実さではないだろうか。「藤木文書アーカイヴ」に微力ながら参加して、簡単には答えの出せない倫理への問いを抱えるようになった。得難い経験を与えてくれた本展示を、多くの方々に見ていただければ幸甚である。
【展示のパネル制作・設営作業の風景】
展示会場での設営中のひとこま。一高の寮で使われていたベッドを会場での鑑賞用の椅子として用いることになった。ベッドの座り心地を確かめつつ、くつろぐ宋舒揚さん(左)と、お手伝いで来ていただいたニコロヴァ・ビクトリヤさん(右)。座り心地は、見た目よりよいようである。奥には、一高時代の写真のコーナーを設営中の小手川将さん(左)と日隈脩一郎さん(右)。
展示設営中の風景。手紙の置き方を検討しているところ。
ハレパネ作りの方法とコツについて説明をする折茂克哉先生。大きなパネルの場合は、ハレパネと紙の間に空気が入らないようにする必要があるという。
様々なサイズにカットされた「ハレパネ」。ここからサイズにあうものを選んで、印刷された紙を貼り付けてから、カッターでカットする。
定規を当てるときに体重をかけて動かないように固定した上で、カッターは奥から手前に上半身ごと動かすのがコツ。パネルの切り口は、垂直より少し斜め内向きにカットした方が、見栄えがよいということである(手前は日隈さん、その奥に高原智史さん、右奥にビクトリヤさん)。
ハレパネ制作風景。各自机をひとつ分使って作業した(一番手前は横山雄大さん)。
自身の展示コーナーを確認する髙山花子さん。
自身の手掛けた手紙コーナーにて(日隈さん)。
【開催初日(2022年3月22日)の記念写真】
「もうひとつの一高」展の入口で出迎える一高の門札を囲んで。特高生にとっても、この門札は「一高」の象徴であったに違いない。
藤木メンバーの中の年表・地図作成チーム。
映画『籠城』制作チーム。今後、展示スペースにも、小手川さんが再編集したショートムービーを流す予定。
報告文:宇野瑞木(EAA特任助教)、小手川将(EAAリサーチアシスタント)、宋舒揚(元東京大学大学院総合文化研究科博士課程)、高原智史(EAAリサーチアシスタント)、髙山花子(EAA特任助教)、日隈脩一郎(EAAリサーチアシスタント)、横山雄大(EAAリサーチアシスタント)
撮影:宇野瑞木、高原智史、日隈脩一郎