2024年3月9日(土)14時より、第31回東アジア仏典講読会をハイブリッド形式にて開催した。今回は土屋太祐氏(新潟大学准教授)による資料の講読、ならびに陸揚(北京大学)による研究発表がなされた。
土屋氏は玄沙打沙弥の公案を講読してくださった。玄沙師備(835-908)は玄沙宗の祖とされる唐末の禅僧であり、玄沙宗は当時の最大勢力であった雪峰教団から派生した一派である。雪峰が主体と客体の一致を主張したのに対し、玄沙は主客双方の背後に共通の基盤となる実在があり、そのうえで一切が縁起的に成立するのだと見た。かかる玄沙の逸話として伝わるのが、玄沙打沙弥――玄沙が沙弥(見習い僧)を打つ――という公案である。国王の甥である王延彬(885-930)が玄沙のもとを訪れた際、あらゆる者に具わる仏性について問答したが、王延彬は理解できなかった。そこに沙弥が入ってくると、玄沙は言う、「罰として二十回打ちすえるところだ」。本来であれば王延彬を打つところなのに、沙弥に罰棒を与えるというのは、全ては根底の実在たる仏性のうえに現れ出たものであるので、王延彬を打つのも沙弥を打つのも同じことなのだという。王延彬は玄沙に謝意を述べるが、玄沙はその理解を認めない。なぜなら王延彬が感謝すべき客体と捉えた玄沙もまた同一の仏性から現れ出たものであり、すべては仏性のなかの出来事に過ぎないからなのであった。
陸氏は「天台山梵本的前世今生」と題する研究発表を中国語で行ってくださり、土屋氏に通訳をご担当いただいた。天台山は天台宗の聖地であり、そこにある高明寺には曽て天台宗の祖天台智顗(538-598)の所蔵と伝えられるサンスクリット写本が所蔵されていた。その存在は19世紀以降、海外にも知られるようになり、多くの研究が為されたが、その由来は長らく不明であった。それに対し陸氏は幽渓伝灯(1554-1627)の『幽渓別志』の分析を通じて、以下のことを明らかにした。このサンスクリット写本はもと蘇州の居士が所蔵していたものだが、明末に天台山に送られ楞厳壇に安置されることになった。楞厳壇は密教を行う施設であり、天台山の復興に尽力した幽渓伝灯が高明寺に築いたものである。サンスクリット写本が楞厳壇に安置されたのは、おそらく密教的な権威を高めるためであったと目される。幽渓伝灯の晩年、文人の記録や詩においてサンスクリット写本がしばしば言及されるようになることから、安置後まもなく人々に広く知られたことが分かる。のち高明寺が荒廃すると同じ天台山にある国清寺に移管され、そのまま今日に至っているという。
土屋氏の講読と陸氏の発表に対してそれぞれ、玄沙の理解を禅宗思想史上においていかに位置づけるべきか、明代においてチベット仏教はどのような位置にあったのか等の質問がなされ、活発な意見交換がなされた。
報告者:柳幹康(東洋文化研究所)