2023年12月23日(土)午後、ハイブリッド形式でジャーナリズム研究会の第十回公開研究会が開催された。これまでは学内外・国内外の研究者に講演していただく形をとっていたが、今回は、司会を主宰の前島志保が務め、公開研究会の実務を担当してきた博士課程の学生5名が、非公開研究会で研鑽を積んできた成果を発表した。
幕開けの発表は、高原智史氏(東京大学大学院総合文化研究科博士課程)による「校風論再考――一高生が校風を語ることで何か起きたか」。明治後期に旧制第一高等学校内で校風が盛んに論じられたが、従来はこの議論が何か実体的なものとされ、その議論と国家主義あるいは個人主義との結びつき、および前者から後者への移行が専ら考察されてきた。しかし、高原氏は、むしろ、校風論を語る場、すなわち、「議論のアリーナ」としての役割にこそ注目すべきであると指摘する。発表後は、思想史的な流れや公共圏の展開との関連から一高の校風論はどのように考えられるのか、といったことが質問され、議論された。
二番目の発表は鶴田奈月氏(東京大学大学院総合文化研究科博士課程)の「明治中期における報道挿絵の試み――『国民新聞』を例として」。報道における挿絵の役割や写真への移行は、要所要所の転換点に関しては研究されてきたが、通史としては研究されてこなかった。氏の研究はこの間隙を埋めようとする試みである。『国民新聞』は、主宰者・徳富蘇峰のスケッチの効果への注目と、専属画工・久保田米僊の新聞挿絵改良への意気込みが相まって、絵で報道内容を伝えようとする傾向が強かったという。同紙における米僊による濃尾地震報道の例を挙げながらの発表の後は、通常時の紙面での絵の用いられ方、文章記事と挿絵の関係性や他新聞の事例などについて、質問があがった。
三番目の発表は、東﨑悠乃氏(東京大学大学院総合文化研究科博士課程)の「第二次『早稲田文学』彙報欄における音楽批評」である。同時代の関連各誌紙との比較を織り交ぜながら、氏は、1906年から27年の間刊行された第二次『早稲田文学』の彙報欄が、文学、美術、演劇、哲学、歴史、宗教など幅広く国内外の「文芸」の最新情報を紹介し、議論の前提となる様々な情報を読者に提供していたこと、そして、音楽に関する情報もその例外ではなかったことを具体的に示した。発表後は、議論の前提となる情報の選別への早稲田文学社の関与と傾向、議論の土台となる情報が提供されたことにより生み出された動きや議論について、質疑応答がなされた。
10分の休憩をはさんで、石川真奈実氏(東京大学大学院総合文化研究科博士課程)による発表「昭和10年前後における『人民文庫』の役割――誌面構成の変遷を手掛かりに」で後半の部が始まった。『人民文庫』は、小林多喜二の獄死、文芸懇話会成立、日本プロレタリア作家同盟解体を経た1936年に、武田麟太郎を中心に創刊された。氏はその誌面構成の分析を通して、自由な発言が困難だった時代に編集部が何を行おうとしていたのかを考察する。そこから見えてきたのは、プロレタリア文学運動の反省のもとに、読者に親しみの持てる誌面にしていこうとする編集傾向と、意識の高い読者に向けて良い文学を掲載しようとする姿勢の間の、矛盾であった。質疑応答では、「良い文学の提供」にこだわる編集部の姿勢の自己目的化の可能性や、武田ら編集部の通俗小説に対する考えなど、大衆と知識人の関係性に関する質問が続いた。
最後の発表は、尾﨑永奈氏(ボストン大学 アメリカ・ニューイングランド研究科博士課程)による「小さくも力強い武器を求めて――19世紀末アメリカにおける女性ジャーナリストの組織化とプレスの役割」である。留学前の東京大学における授業や本研究会での活動を通して日本の出版・報道文化について学んだ経験がアメリカの出版史を研究する場合にも活かされていると語る氏は、19世紀末にアメリカ各地で結成された女性報道協会に着目し、出版や報道に関わる女性達がいかに相互扶助と交流を通して専門職業人としてのプロフェッショナリズムの確立と連帯、および社会改革の推進を目指していたのかを、多数の資料の分析を通して示した。プロフェッショナリズムの定義、結社の文化との関連、男性の専門職団体との関係性など、幅広い視点からの質問と応答が発表に続いた。
年末の週末にもかかわらず、対面とオンラインを合わせて40名ほどの参加者が集い、記念すべき第十回目の会にふさわしい半日となった。海外を含め遠隔地からの参加者も少なくなく、オンラインの良さを感じると同時に、発表後も会場で意見交換や情報交換が行われている様子からは、対面による研究会開催の意義を改めて感じた。今回の発表者達の協力のもと、『近事画報』類デジタル版が近々刊行される。関連イベント開催を期して散会した。
報告:前島志保(総合文化研究科)