2023年11月25日(土)14時より、第28回東アジア仏典講読会をハイブリッド形式にて開催した。今回は末木文美士氏(国際日本文化研究センター・総合研究大学院大学・東京大学名誉教授)による書評の紹介、および前回に続き柳幹康(東京大学東洋文化研究所准教授)と小川隆氏(駒沢大学教授)による講読が為された。
末木氏が紹介してくださったのは、10月28日に京都大学人文科学研究所の課題公募班「「語りえぬもの」を語る行為とその思想表現に関する学際的研究」で行われた古勝亮氏『中国初期禅思想の形成』(法蔵館、2023年)の書評についてである。そこで議論となった洞山「過水の偈」の解釈の問題について紹介が為され、先行研究ならびに中国文学との関係について議論が為された。
柳は前回に続き大慧の「寂滅現前」(究極の静けさの出現)を理解するための材料として、以下六種の資料を取り上げ講読した。すなわち⑴「住福州洋嶼菴語録」、⑵「住径山能仁禅院語録」、⑶書簡「答呂郎中」、⑷書簡「答富枢密」、⑸法語「示蘇宣教」、⑹「傅経幹請普説」である。そこからは以下のような理解が読み取れる。⑴真の生滅に生滅はなく、「寂滅現前」すれば分別の及ばぬ禅の勝れた働きを発揮することができる。⑵大慧は修行僧に対する説法において「寂滅現前」のあり方を尋ねている。⑶虚妄なものを実体視し、世界の実相を苦と思いなす衆生の誤りを解くため、仏は生滅を絶した「寂滅現前」を示した。⑷生滅の分別を超えたところが「寂滅現前」であり、そこでは活殺自由、自利利他円満という勝れた働きが現れでる。⑸妄想を留め心を静めることで「寂滅現前」を得、本来のあるべき姿に回帰することができる。⑹「寂滅現前」は釈尊と同じ悟りであり、慈悲を巡らせ、衆生を救う状態である。前回の内容と合わせ考えると「寂滅現前」とは、悟りに対する執われを含む一切の執着・分別を除ききった仏に等しい悟境であり、そこに至った者は自ずと慈悲に基づき、衆生の分別を巧みに断ち切ることで悟りへと導くと大慧が考えていたと言える。
小川氏は『宗門武庫』の第16段、賢蓬頭の話を講読してくださった。賢蓬頭は、ボサボサ頭(蓬頭)の賢さんの意。本名も伝記も不詳であるが、僧侶としてすべき剃髪をしていなかったことから、規矩に従わない自由奔放な人物であったことが想像される。彼は臨済宗の禅僧真如慕喆(?-1095)の門下で抜きん出た存在であり、師をも超える力量を具えていたが、日頃の行いが不謹慎であったため、他の修行僧から軽んじられていた。真如慕喆は当初、賢蓬頭を庵に独り住まわせたが、後にいきなり首座(修行者を指導する最高の役職)に任命し、住持の自分の代わりに説法させたところ、あまりの素晴らしさにみなの看る眼は一変した。没後、その身は腐敗することなく、生前の姿をたもったままだったという。小川氏によれば高僧は没後、火葬される場合と土葬される場合があり、悟りを得た者は火葬の後には舎利を残し、土葬の場合には生前の姿を保ち続けると当時考えられていたという。
以上の講読に対し、大慧が説いた内容と年齢の関係、当時刊行された書籍の受容状況、舎利や肉身不壊と悟りの関係などをめぐり活発な議論が為された。
報告者:柳幹康(東洋文化研究所)