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2024.05.09

【報告】第27回東アジア仏典講読会

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2023年10月14日(土)14時より、第27回東アジア仏典講読会をハイブリッド形式にて開催した。今回も前回に続き柳幹康(東京大学東洋文化研究所准教授)と小川隆氏(駒沢大学教授)により、それぞれ大慧の普説ならびに『宗門武庫』の講読がなされた。

 

 

柳は大慧の「寂滅現前」(究極の静けさの出現)を理解するための材料として、三種の普説、すなわち⑴「松林臻長老請普説」、⑵「姜機宜請普説」、⑶「程総幹請普説」を取り上げ講読した。そこからは以下のような理解が読み取れる。⑴悟りに対する執われを克服した後に得られるのが「寂滅現前」である。⑵すぐさま「寂滅現前」を得た例に、『華厳経』に説かれる善財童子や竹にあたった石の音で悟った香厳智閑などがおり、彼らは悟りに執われてしまう当時の愚かな修行僧とは全く異なる。⑶「寂滅現前」を得た者の勝れた言葉として理解不可能が公案が列挙され、それに執われ理解しようとする当時の修行僧の非を論っている。

 

 

小川氏は『宗門武庫』の第15段、真浄克文の舎利の話を講読してくださった。真浄克文(1025-110)は大慧が長く師事した臨済宗黄竜派の禅僧湛堂文準(1061-1115)の師である。真浄克文が遷化し荼毘に付されると、豆のように大きく様々な色に輝く舎利(聖なる遺骨)が残された。真浄克文の高弟の谷山希祖はそれを瑠璃の瓶に収めて常に供養しており、そのもとを訪れた大慧はその舎利を試みた。すなわち、舎利を鉄床のうえに置き槌で思い切り撃ったところ、鉄床も槌もへこんだが、舎利にはキズひとつ付かなかったのだという。中国では仏の舎利に対する信仰に加え、唐代以降、高僧の証として火葬後に得られる舎利への尊崇が高まり、時代が下るにつれその数は増える。おそらくこれは禅宗が優勢になり禅僧の数が増加したことの反映であり、禅僧の舎利の話が多いのは禅宗が自ら仏と同じ悟りを得ることを標榜する宗教であったことの反映であろうと小川氏は指摘された。

以上の講読に対し、大慧の悟後の実践に対する理解やその説明時に用いる語彙、日本達磨宗で舎利が信仰されていたこととの関連、唐代以前は舎利を塔に収めていたのに対し宋代には瑠璃の瓶に入れて個人で崇拝するというように信仰形態に変化が生じたことなどをめぐり、参加者も交え様々な視点から意見の交換が為された。

報告者:柳幹康(東洋文化研究所)