2023年9月28日13時から16時にかけて、對「天下」的批判性探討:當代中國思想・哲學與歷史學・國際關係論之間的對話(‘Tianxia’: dialogue between contemporary Chinese philosophy, history and IR studies)と題したシンポジウムを開催した。シンポジウムはオンラインとのハイブリッド形式、会議言語は英語で行われ、登壇者やEAAスタッフだけでなく、一般からの参加も認めた。以下、本シンポジウムの立案者兼討論者でもあるブログ執筆者が、会議の模様を簡単に紹介する。
本シンポジウムは、執筆者の次のような問題意識に基づいて企画された。現在、国際政治学において、多くの理論が西洋由来のものであり、ほかの地域に対して普遍的に適用できるものではないとの問題提起がなされている。そのなかでも、中国学派は中国の歴史的経緯を参照することで、「天下」という世界観を普遍的な概念として提示している。このような見方は、許紀霖や趙汀陽らによる現代中国哲学・思想研究(例えば、新天下主義)の影響を強く受けている。近年日本においても、柄谷行人らが盛んに紹介に努めているし、主催のEAAでも関連のイベントがしばしば開催されている。しかし、このような思想・哲学分野以外から見た際、天下という概念そのものやその背景となる歴史解釈の妥当性はいかほどのものなのだろうか、と。そこで本シンポジウムでは、歴史学や国際関係論の視座からこの問題を批判的に検討することにした。
執筆者は、東京大学大学院法学政治学研究科の円光門氏(専攻は国際関係論、特に秩序論)と台湾中央研究院歴史語言研究所の孔令偉氏(専攻は明清史、特に中国とモンゴル・チベットの関係)の両名に登壇者を依頼した。また、執筆者(専攻は戦後東アジア国際関係史、特に日中ソ関係)自身も討論者を担当した。つまり、登壇者には哲学・思想以外の角度、とりわけ歴史学と国際関係論という時系列的には両端に位置する角度から「天下」概念について議論を行ってもらう。そして、歴史学と国際関係論の中間に位置する討論者が、両者を架橋する。これが今回の人選の狙いである。
まず執筆者がシンポジウムの趣旨説明と登壇者の紹介を行った後、両名の報告が行われた。第一に、孔氏が明末清初における満洲・モンゴル・チベット間の交流について、以下のように報告した(Beyond the Tianxia: Political and Religious Relations between the Qing Empire and Tibet (超越 「天下」 清帝國與西藏間的政教關係))。満洲人はモンゴル(語文献)を通じてチベット仏教の知識を獲得し、これを後金の国家建設に生かしていた。一方で、儒教は後金において、さしたる地位を占めていなかった。また、後金はチベットを属国というよりも、対等な国家として見ていた。しかし、満洲人の入関後、このような関係が次第に変容していく。つまり、後金から変態した清朝は、チベットを朝貢国として遇していくのである。ただし、清朝は依然としてチベット内部の事情をほとんど関知できていなかったし、チベット側は冊封・朝貢関係を骨抜きにするような行動に出ていた。つまり、中華的な「天下」が必ずしもチベットや清藏関係を覆っていたとは必ずしも言えない、と。
続いて円光氏が、現在の国際関係論における中国学派の扱われ方を次のように紹介した(Can Tianxia philosophy solve the problem of the Other in International Relations? (天下思想能解決國際政治中的他者問題嗎?)。国際関係論においては、「天下」概念は概して批判的に捉えられてきた。とはいえ、国際関係論が極めて「西洋的」な学問であり、「天下」のような非西洋的なアイデアがこれに修正を迫る可能性は存在する。結局のところ、国際関係における「世界観」がどの程度浸透するかは、その後景にある大国間のパワーバランスに影響されるだろう、と。
以上の報告に対して、執筆者はコメンテーターとして主に現在の「天下」の解釈と実際の歴史的事実の差異及び、歴史的概念を現状分析に適用することの是非について問題を提起した。報告者はそれぞれ、多少異なる立場からリプライを行った。つまり、孔氏が適用可能性について比較的慎重な立場をとった一方で、円光氏は「天下」の持つ潜在性について、積極的な側面にも注意を払う必要があると主張した。
その後約30分間にわたって、フロアからも質問を取りつつ、議論を深めた。フロアからは、天下思想におけるジェンダーや他者性の扱いなどが質問として提起された。
報告者:横山雄大(EAAリサーチ・アシスタント)