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2023.06.15

【報告】2023 Sセメスター 学術フロンティア講義「30年後の世界へ—空気はいかに価値化されるべきか」前半を振り返って

中島隆博氏の「花する空気」と小川さやか氏の「時間をあたえあう—タンザニアの零細商人の贈与論」の背後には、1つの共通する視座が横たわっていたように見える。それは、各々の講義の根幹を成す核心的要素の1つに過ぎないが、近代における自己完結性の前提を相対的にあぶり出そうとする批判的な態度であった。

近代科学や近代資本主義は、自己完結化した個、自己完結化した種、自己完結化した経営モデル(例えば、植民地経営を思い浮かべればわかりやすいであろう)等の存在を暗黙のうちに認め、それらを普遍化しようとする試みにあまりにも偏重し過ぎてきた。中島氏と小川氏の問題提起は、そのような「ものの見方」を押し広げていくことの綻びこそが、気候変動やエネルギー問題といった昨今の地球全体を揺さぶるクライシスのみならず、個々人の「生きづらさ」を助長する引き金の1つになっていることを私たちに気づかせてくれた。

そして、中島氏と小川氏の講義が示唆していることもまた、同じ方向性を有していたように思われる。それは、中島氏の主張する“human being”ではなく“human co-becoming”の思想に縮約されている。人は、人間以外を含む他者とのしばしば偶発的な出会いによって、思わぬかたちで他者と「共に(co-)」に発展(あるいは進化)を遂げていく。そのプロセスは、自己完結化された個に内在する能力やシステムをただひたすら拡張させるだけでは得られないような、創造性と喜びに満ち溢れている。ここで、主語を「人」から「動植物」や「菌類」などに置き換えてもまた然りである。

五神真氏の「「空気の価値化」を通じて考える「知の価値」」は、中島氏や小川氏の講義と並置されることによって、そのメッセージがよりくっきりと浮かび上がることになった。総長時代の五神氏をダイキン工業株式会社との産学協創へと突き動かしたのは、異業種・異分野の人々が交じり合うことの偶発性、そこから導き出される創造性、そして発見する喜びの雰囲気を生み出したいという想いであった。そのようなプロセス自体が、社会的に価値あるものとして認知されるよう努められたと言ってもよいかもしれない。

ダイキン工業の井上礼之会長は、本学と産学協創協定を締結する目的の1つとして、自前主義からの脱却をかなり明確に打ち出されている。ややもすると自己完結化しようとする大学もまた、その殻を破るべきときが、確実に来ている。

動植物等を含む私たちは、いかに物質としての空気や雰囲気としての空気と結びつき、あるいはそれらに触発されるかたちで、共に交わり、創造的になり、発展(あるいは進化)を遂げることができるのか?

この問いへのアプローチとして、安田洋祐氏の「資本主義と空気の価値〜市場・国家・社会的共通資本〜」は1つのヒントを提示してくれたように思う。安田氏は、資本主義における望ましい空気の扱われ方を吟味すべく、宇沢弘文による「社会的共通資本」の概念を「シン・コモンズ」として再解釈する試みを展開された。

私がとりわけ重要であると感じたのは、シン・コモンズ論の鍵となる宇沢のアンチテーゼである。宇沢は、「コモンズ(コモンプール財)」が「オープンアクセス」とほとんど同義に語られていることを批判し、うまく機能しているコモンズは、諸資源へのアクセスが部分的に競合しているだけでなく、諸資源へのアクセスが部分的に排除され得る状態にあると指摘する。安田氏は、このような部分的競合かつ部分的排除可能性こそが、シン・コモンズたる社会的共通資本の適切な分配と共有を可能にすると説明する。

空気は、一見グローバルなオープンアクセス状態に置かれているように見える。他方、安田氏のシン・コモンズ論は、空気を含む社会的共通資本へのアクセスを巡って、実のところ部分的競合かつ排除が多様なかたちで存在していることを示唆する。詰まるところ、空気は地域や業種、あるいは社会集団毎にそれぞれ独自に扱われ、認識されている。この点は、例えば日本とグローバル・サウスの間に横たわる様々な違いを思い浮かべればより理解しやすいであろう。私が吸っている空気とあなたが吸っている空気は、物質的にも、認識的にも、たぶん違うのだ!

もし、物質的あるいは雰囲気として、という意味での多義性を超えたところに「多様な空気」なるものがあるとすれば、それらはどのように理解し得るであろうか?それらを一つ一つ解きほぐし、吟味していこうとする人文的試みこそが、「空気の価値化」ではないか?

山本浩貴氏の「現代アートと空気—可視化と価値化」では、「多様な空気」の表現を可能にする方法論としての現代アートの可能性が解説された。山本氏の講義は、現代アートの特質をより明確に浮かび上がらせるべく、近代アート(あるいはモダニズムのアート)との対比からはじまった。近代アートの相対的な特徴として、制作(作者)と鑑賞(鑑賞者)の完全な分離、作品内部に宿るものとしての美を挙げることができる。山本氏は、美術批評家クレメント・グリンバーグの言葉を借りて、そのような近代アートの姿勢を「徹底的な自己–限定」と解説された。制作上のイデオロギーはより複雑であるにせよ、近代アートの一般的な制作態度の背後に、先に中島氏や小川氏が浮かび上がらせていた自己完結化の近代性が透けて見える。

現代アートの方向性は、近代アートのそれとはほとんど正反対と言ってよい。現代アートは、アートとそれ以外、美しいと思われているものとそれ以外、作者と鑑賞者、あるカテゴリーと別のカテゴリー、ひいては人間と人間以外の境界に揺さぶりをかけようとする。絶対的な美を表現するのではなく、アイディアやメッセージを表現する。作品の解釈自体は鑑賞者に委ねられるのだが、気付かぬうちに何らかのかたちで鑑賞者が制作過程に巻き込まれている。このような開放的なプロセスとしての現代アートは、見えぬもの、まだ見ぬものを映像、音、形などで可視化あるいは前景化していこうとする終わりなき営みである。山本氏に紹介して頂いた空気に係る現代アート作品の数々は、いずれも強烈なメッセージを持っていた。少なくとも、私はそう感じた。私たちは、空気について、どれだけのことを知っていたであろうか?

このような意味において、香川謙吉氏の「空調メーカーが試行している空気の価値化」によってもたらされた1つの科学的事実は、聴講者の多くにとって衝撃的であったに違いない。それは、堺(大阪)、蓼科高原(長野)、美瑛・富良野(北海道)の空気質を夾雑物の量、内容、構成で比較した実験の結果である。夾雑物の量については、堺の空気に最も多く含まれ、蓼科高原、美瑛・富良野がそれに続くかたちとなったが、同時に蓼科高原イコール「高原のような空気」のイメージを揺るがす知見が得られたと香川氏は述懐する。堺と蓼科高原の空気において、夾雑物の内容と構成に何ら差はなく、蓼科高原と美瑛・富良野の空気が感覚的に清々しそうだからといって、アロマに係る成分などが特別含まれているわけでもない。

無論、空気質が人間の健康や万物の生存に与える直接的影響を無視することはできない。それらが、空気の価値を判断する上での1つの基準として流通していることは確かである。他方、空気の価値はまた、より複雑なプロセスを経てつくられている。それらは、物質的な、自己完結化した存在として捉えられる空気の中から発せられるのではなく、おそらくは私たちの心と共に、ある。

最後に、学術フロンティア講義の運営を支えて頂いているEAA特任助教・特任研究員・学術専門職員、UTokyo OCWの皆様、そして聴講者の皆様に、深謝の意を表する。

報告:野澤俊太郎(EAA特任准教授)