2023年3月11日(土)、陳言氏(北京市社会科学院文化研究所)による講演「桥川时雄在北京:文化亚洲主义的实践及其限度」(「北京居住時の橋川時雄――文化的アジア主義の実践とその限界」)がオンラインで行われた。同講演は鈴木将久氏(東京大学人文文社会系研究科)による企画・EAA連続ワークショップ「中国近代文学の方法および射程」の本年度第2回目に当たり、今回は75名の参加があった。司会は王欽氏(東京大学総合文化研究科)が務めた。
(左から順に陳言氏・鈴木将久氏・王欽氏)
陳言氏は、北京において近代日本が「知」という比較的目立ちにくい形で存在していたことに注目して研究を進めているが、今回取り上げた橋川時雄(1894-1982)の文化的アジア主義というテーマも、そうした陳氏の研究の一環である。陳氏は近代日本の対外論における二つの大きな流れ、即ち脱亜主義とアジア主義が時には互いに混ざり合っていたという事実を念頭に、本当の意味でアジア主義を主張した者は果たして存在したのかという疑問が湧いたことを自身の研究の動機の一つとして挙げ、こうした問題は抽象的に議論するだけでなく個別のケースを具体的に論じる必要があることを冒頭で確認した。
今回の講演の対象である橋川時雄は1918年に北京に渡り、『順天時報』に入社して記者として活動、同誌副刊「学芸」を担当した。また北京大学に聴講に行く傍ら梁啓超や胡適の翻訳をも手掛けるなど幅広く活躍し、周作人をはじめ、中国の文化人たちとの間にも極めて活発な交流があった。1927年には文字同盟社を主宰し、中国語・日本語併戴の『文字同盟』を1931年まで発行した。同誌への投稿は中国の学者が9割を占めていたが、このことからも橋川と中国の文化人の強い繋がりを伺うことができる。また1928年には橋川は東方文化事業総委員会に勤務し、1931年には『続修四庫全書提要』事業に携わりながら、江蘇・浙江・安徽・湖北・湖南など中国各地を訪ねて調査を行った。
橋川は『文字同盟』の停刊以降も、「北京の出版界」、「北平書訊」、「支那学界の趨勢と北平文化の崩壞」、「日支文化工作の観点」といった北京の学術界の状況と変化に関する文章を次々と発表しているが、そうした一連の著述からは、現状の描写から文献の整理や精神史の描出、ないしは単なるよそ者から統治者へという橋川の態度や身分の変化を見て取ることが出来る。なおこの時期の橋川の重要な成果として、『中国文化界人物総鑑』を欠かすことはできない。同書は様々な分野にわたって、中国の文化人に関する情報を網羅的に収めた人物事典であるが、それは同時に橋川の個人的な学術交流史そのものであったとも言えるだろう。
また橋川は『四庫全書』の目録に基づいて『満州文学興廃考』なる書籍をも物している。表題にある「文学」とは、近代的な学科としての文学ではなく、文章や学術一般を指す古典的な用法に基づくものだが、それでも同書は史上初めて書かれた「満州文学史」である。清代以降の掌故学は基本的に満州旗人によって担われてきたという認識を持つ橋川にとって、満州族の亡国の情は、自身の満州への連帯感や興味を触発するものだった。そして同書の誕生もまた、『順天時報』以降の橋川の幅広い文脈や、中国各地への遊歴の経験によって支えられていたことは大いに注目すべきポイントである。
最後に触れておかねばならないのは、帝国の代理人としての橋川の活動実践である。例えば橋川は北平で起きた学生運動に関する報告を外部省に提出しているが、そうした機密文書は、日本側が抗日勢力を制圧したり親日勢力を養成したりするうえでの直接的な証拠となった。また中国の不屈を説く張東蓀の著作を興亜院に提供したり、北平地方維持会の顧問として文化工作に従事したりするなど、橋川は積極的に当時の体制に協力していたと言える。しかし一方で、斉如山の回想録には橋川が密かに斉の北平脱出を手助けしたことが記されているように、当時の橋川の行動は様々な矛盾を抱えたものだった。丸山眞男の言葉を借りるのであれば、そうした橋川の相反する行動はまさに「無媒介で併存」していたのである。そしてこれこそ、橋川の文化的アジア主義が持つ一種の限界であった。
ここで改めて橋川のアジア主義について考えてみると、それが単なる政治的なスローガンではなく、彼の行動原理となっていたことが分かる。そして橋川にとって、中国は研究対象であったのみならず、彼の思想的資源でもあった。その意味でも、橋川のアジア主義とは極めて感性的な文化的アジア主義であったと言うことができる。また橋川も関与した日本の対華文化事業は戦後の北京にもその痕跡を認めることができるが、地域史的な観点から言えば、北京が抱えるこのような特徴は、植民地となった「満州国」や極めて近代的な様相を示した上海とともに、日本による文化的殖民の複雑さや多層性を構成していたのだと言える。この点においても、北京において近代日本が「知」という形で確かに存在していたことは明らかである。
北京における「知」としての近代日本や文化的アジア主義といった大きなテーマについて、抽象的な議論へと持ち込むのではなく、飽くまで個別のケースを丹念に追うことで問題に取り組もうとする今回の公演の内容は、以上のように、橋川の北京時代全体を詳細に確認してゆくものであった。講演後に設けられた質疑応答の時間では、橋川は自身の考えを一体どのような形で表現したのか、日本の学術研究において橋川が重視されていないのはなぜか、橋川が外務省と関わるようになるまでの過程はどのようなものだったか、橋川のアジア主義には変化があったのかなど、オーディエンスからの質問が相次ぎ、講演は盛況のうちに幕を閉じた。
報告:田中雄大(東京大学人文社会系研究科博士課程)