2022年12月28日、ユク・ホイ『中国における技術への問い——宇宙技芸試論』(伊勢康平訳、ゲンロン、2022年)の読書会の第4回が開催された。
今回は邦訳の150頁から184頁まで、節でいえば第10. 1節「道家における器と道——庖丁の牛刀」から第10. 3節「ストア派と道家の宇宙技芸にかんする見解」まで読み進めた。レジュメ担当者は村上聖氏(教養学部教養学科超域文化科学分科現代思想コース3年)で、EAA特任研究員の汪牧耘氏、EAAリサーチ・アシスタントで本報告の執筆者である伊勢康平ほか、数名の学生が参加した。なお、今回は年末の開催となったため、オンラインのみで実施した。
この日読んだ範囲では、おもに以下の2点が論じられている。(1)ホイ氏のいう「宇宙技芸」が、道家や儒家においてどのように見受けられるか。(2)その道家は、ストア派とおなじく「自然」に従うことを重視しているが、両者にはどのような違いがあるのか。このような本文の構成ゆえか、議論は道家思想の内実や、そのストア派との比較を中心に展開された。ここでは、そこからいくつかの論点をピックアップしておきたい。
ひとつめは、道家とストア派にとって「合理性」とはなにかというものだ。この問題は、レジュメ担当者の村上氏が、「理性」「合理性」「合理的」などの訳しわけについて疑問を投げかけたのをきっかけに展開された。
たとえば『中国における技術への問い』では、「エウダイモニア」(幸福)という言葉をめぐって、つぎのように述べられている。
ストア派は合理性に高い価値を置いているが、それは合理性がエウダイモニアをもたらすからだ。そして人間は、合理性をもつことによって宇宙における特定の役割を果たす。おそらく道家は、この前半部分は認めるだろうが、後半は否定するだろう。なぜなら、道はすべての存在者のなかにあり、自由は無為(なにもしないこと)をつうじてのみ得られるからである。(邦訳181-182頁)
この記述に従うなら、道家は「この前半部分」、つまり合理性が幸福をもたらすため、そこに高い価値が置かれるという考えを肯定していることになる。しかし、本書の第10. 1節でも論じられているように、道家は機器による生活の合理化や、理性的思考一般を拒むことで知られている。そうした人為的なものが「自然」を損なうとされるからだ。とすると、道家にとって合理性が幸福をもたらすという記述はどういう意味なのだろうか。
この問題を受けて、読書会のなかで議論されたのは、そもそもストア派と道家は、異なる「合理性」の、さらにいえば「理」の概念をもつのではないかということだ。たとえばストア派にとっては、宇宙は立法者としての神とその〈理性〉に関係する。だから、(動物にはない)理性によって行動が導かれるようつとめることで、人間は神聖な宇宙的自然に従うことができ、究極的には「神の生活に匹敵するか、あるいは類似した幸福な生活」(175頁)へと至るだろう。
他方で、道家が従おうとする「天の理」は、人間の思考がもつ理性にではなく、万物に備わる自然の道に関係している。だから、たしかに道家にとって「理」にかなうことは重要であり、その境地は(たとえば『荘子』至楽篇に描かれるように)ある種の幸福な生をもたらすだろうが、しかしこれは人間に固有のミッションではない。むしろ、人間の固有性という発想自体の破棄が求められるのだ。このように整理すれば、道家は「この前半部分は認めるだろうが、後半は否定するだろう」というホイ氏の記述をはっきり理解できると思われる。
もうひとつの問題は、「技術」と「技法」というふたつの言葉にかかわっている。本書においてホイ氏は、技術(technics)とテクノロジー(technology)を区別している。前者は「あらゆるかたちの制作や実践の一般的なカテゴリー」(33頁)をあらわし、後者は産業革命によって誕生した近代的なテクノロジーを意味する。しかし報告者は、本書を翻訳するなかで、ホイ氏には技術的対象やその生産のみを「技術」とみなし、形式化された身体的実践や洗練された「わざ」そのものをそこに含めない傾向があることに気づいた。その典型的な例が、今回の読書会で扱った儒家の儀礼や、道家やストア派の諸実践である。じつはこうした実践に対して、ホイ氏は art という言葉を当てており、technics とは慎重に区別している。邦訳では「技法」とされた言葉がそうである。
今回の読書会では、この問題について何らかの明白な回答が出たわけではない。とはいえ、参加者のあいだで、第10節に象徴的にあらわれたこの問題が、本書において残されたひとつの大きな問題であるという認識を共有することはできた。そして、それぞれの関心にもとづいて、具体的な実践を技術として解釈する可能性が語られつつ、読書会は終了した。次回は、学期末の1月を避けて、2023年の2月下旬に開催される。
(なお、手前味噌で恐縮だが、報告者自身は『群像』二〇二三年四月号に寄稿した論考「技術多様性の論理と中華料理の哲学」のなかで、この「技術・技法問題」を検討しており、また報告者なりの応答として、中華料理の哲学を提唱している)
報告者:伊勢康平(EAAリサーチアシスタント)