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2022.11.25

【報告】第15回東アジア仏典講読会

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2022年10月15日(土)日本時間14時より、第15回東アジア仏典講読会を開催した。今回は前回に続き土屋太祐氏(新潟大学准教授)と張超氏(PSL研究大学フランス高等研究実習院常任副研究員)による『宗門十規論』と『勅修百丈清規』「月分須知」の講読がそれぞれなされた。なお張氏の講読は中国語でなされ、柳幹康が通訳に当たった。

『宗門十規論』は第一、二章を会読した。第一章では心地(大地のように一切を支える心)を仏道修行の根本とするという著者法眼の立場を最初に宣言したうえで、仏教の流れを略述し、名声を追い求める禅僧たちを批判している。第二章では禅宗が分派していった流れを示したうえで、根本の真理を悟らず党派争いに終始する当時の禅僧たちを非難している。土屋氏は上述二章に対して詳細な説明を加えつつ、そこには著者法眼が生きた十世紀の中国禅宗界の動向が反映されていると論じられた。

『勅修百丈清規』「月分須知」は六月から八月まで読み進めた。六月になると一日以降、坐禅板(坐禅の時間を告げる板)を鳴らさなくなる。暑くなるため九月まで坐禅を課さなくなるのである。その後、掃除や冬の準備を行なう。七月には十三日と十五日にそれぞれ楞厳会・盂蘭盆会と称される法要を行なう。八月には一日に旦過寮(客僧が暫時宿泊する建物)を開く。これ以降、修行僧は自由に移動できるが、一寺に留まることが期待されていたという。また五月に掛けた蚊帳が外されるのもこの月である。

張氏の解説の後、長く一寺に留まることが期待されていたことの理由や、現在の韓国・日本における禅宗の修行形態などについて参加者も交え広く議論が為された。うち長期滞在が望まれる理由については、修行僧の多寡が住持の評判に関わるからではないかという意見が出る一方で、経済的負担が増大するため寺院の経営能力が問われるという一面もあったであろうことが指摘された。

上述二種の著作は書かれた時代もその性格も異なるが、今回会読した箇所からは図らずも禅僧の生々しい一面が倶に読み取れるように思う。悟りを得て一寺に住持した後も、世間的な評価と無縁ではいられなかった様子が窺われるからである。それは必ずしも宗教的理想とは合致しないかもしれないが、だからこそ複雑な現実世界を生きる我々にとってより味わい深いものになっているのではないだろうか。

報告者:柳 幹康(東洋文化研究所)