これは何の声か。
2022年3月18日、駒場キャンパス学際交流ホールにて、関係各位への成果発表を兼ねて、映画『籠城』の初回上映会が行われた。出演者やスタッフも含め、ほとんどの方が完成版を観るのは初めてであり、まさに待望の日であった。それだけに、これまでの結晶ともいえる光の束と対峙した65分間は感慨深く、何物にも変えがたい時間であったが、そのなかで何度か既視感のようなものがよぎる瞬間があった。それが冒頭に記した問いだった。それは私個人として、この映画の制作に関わるなかで、折に触れて立ち上がってくる禅問答のようでありながらも、最も魅惑的な問いであった。私たちはいったい何を聴いているのか。この声はどこから聴こえてくるのか、と。
本作へ「声」で参加することが決まったのは、2021年9月のことだった。プロデューサーの髙山さんより「映画制作に携わっており、声の出演者を募集している」との知らせを受け、応募してみたのがきっかけだった。「映画か、なんか面白そう」くらいの気軽さで応募したため、選考に通るとも、ましてや後述するような複雑な位相の声を担うとも思っていなかった。
参加が決まり、送られてきた台本を見て驚いたのを覚えている。旧制一高について全く馴染みがなかったせいもあるが、難解な語彙や、文語調のクセのある言い回しが並んだ。一見していかにも読みづらそうだなという印象そのまま、ルビを振るところから早々につまずいた。しかもこれを主に6人の声で分担するという。特定の役者の「心の声」か、あるいはナレーションのようなものを想像していた安直さが、ものの見事に打ち砕かれた。これはいったいどんな映画になるのだろうかと素朴に思った。
まもなく初回のワークショップがあり、そこで小手川監督はじめスタッフや声の出演者の方々と顔合わせをした。その場で監督からいわれたのは「原案作成者であり、本作主人公のモデルでもある高原さんは最も院生に近い声。金城さん、安原さんは高原さんに次いで院生に近い声。宮城嶋さん、新田さん、永澤さんはそこから少し離れて、遊びの可能性を含んだ声」という趣旨のことだった。声をそのような距離感で図る捉え方が独特だと思ったし、高原さんの他に院生に近いとされている声が複数設定されていること、またそのなかに女性が含まれていることからも、院生の声と一致させることが目的ではないことが暗に強調されていた。
であるならば、と、ここで一つの疑問が浮かんだ。この6人はいったい何の声を表現しているのだろうか。どうやらそれぞれの役割らしきものはある。しかし、明確な役名があるわけではなく、それは極めて流動的で曖昧なものでもあることが見てとれた。ただはっきりとしたことは、6人の声はそれぞれ、主人公の院生を中心とした分布図上に配置されており、所謂均等割りではなく、何らかの位相を成しているということだった。とはいえ、この声の群れがどのように具象化し、一つの映画へと結実していくのか、この時点では全くもって見当もつかなかった。
私自身が一番もやもやしていたのは、何を、どのように演じれば良いのかが不明瞭であることだった。これは私が書いたテキストではない。そのテキストを私が声にするということは、私以外の何者かの声に私の声を寄せることだという思い込みがどこかにあった。しかも、その寄せる対象が明示されていないことで、声の志向性を探りかねていた。
その疑問に対する一つの回答となったのが、初回のワークショップ以後、3週に渡って毎週金曜日に台本の通し読みを各自で録音・提出し、メンバー間で音声を共有した経験だった。
この過程を経られたことによって、映画制作自体の方向性が定まっていったようにも思えるし、声の持つ不思議さを全員で体現できたという意味でも非常に有意義な機会だったと思う。
興味深かったのは、同じテキスト、しかも、小手川監督からは全員に対し「独り言のように」「淡々と」読み上げることを示されているにも関わらず、読む人が変わるだけで、全く別物のテキストのように思われたことだ。当然、人によって声質や抑揚の付け方も違えば、テンポやリズムも違うことは想定されたが、それを差し引いたとしても、それぞれの個性が隠しきれないほどに隆起していた。
例えば、読むスピードひとつとっても、20分ちょっとで読み上げる人もいれば、私などは毎回30分近くかかった。ここにはおそらく「淡々と」への解釈の違いもあったとは思うが、それ以上に、それぞれに内在する時間感覚が異なっていることを示していた。
加えて更に瞠目したのは、同じ人であっても、3回の録音でそれぞれ少なからぬ変化が見られたことだ。毎回録音を終え、共有する段になると、小手川監督から個別に読み方や発声の仕方に対し指示が入り、その指示を踏まえた上で次の録音に望んだ。その指示による変容ももちろんあるとは思うが、それだけではなく、その時々の気分や感情の起伏、体調や録音環境の違いが録音内容に大きな影響を及ぼすケースが散見された。
私に関していえば、2回目の録音時に風邪気味で若干声が掠れていたことで、小手川監督から「今回は声が硬く、語気が強い。読み方を変えたのか?」と指摘を受けた。私としては、さほど声枯れは気にしておらず、1回目と同じ意識で読んでいたので、そのような受け止め方をされて意外に感じた。おそらくこのような経験は私だけでなく、私以外の声のメンバーも程度の差こそあれど、思い当たる節があるのではないだろうか。体調の変化ひとつとっても聞く人に与える印象は大きく変わってしまうし、それは人間の再現性の乏しさであると同時に、全てが一回性であるがゆえの人間の持つ多様性、その豊かさともいえると思う。
ここで重要だったことは、小手川監督がそれらのイレギュラーな揺らぎを排斥せず、受け入れる姿勢を明確に伝えてくれたことだった。それこそが私にとっての回答となった。いま思えば、小手川監督の「独り言のように」「淡々と」という指示も、技術や慣例に裏打ちされた「作られた声」を剥ぎ取り、各個人の「地声」を引き出すための演出手法だったのかも知れない。何かを演じる必要はなく、等身大の自分のままで良い、という小手川監督からのメッセージと受け取れたことで、役作りを越えた部分でこの映画の声と向き合う私自身の主体が定まったのだった。
その後、台本の改変が重ねられながら、それぞれの声が割り振られ、本番の録音を終えた後、編集作業の途中経過として試作段階の『籠城』を何度か観る機会があった。その度に必ず「これは何の声か」という問いが浮かんできた。毎回一応の返答はしてみる。これは声の出演者各々の声である、いや、かつての一高生たちの声である、いや、その一高生たちの閉鎖的でホモソーシャルな一面への現代からの批判的な声である、はたまた映画のなかの院生の内省的且つ無意識下の声である、そもそも原案であり院生のモデルでもある高原さんの声である、いやいや監督・脚本として統制をとった小手川さんの声ともいえるのではないか、いずれの声でもあり、いずれの声でもない、云々……しかしどれをとっても欠損を孕んでいて、不十分な回答といわなければならなかった。そもそも正解などないことはわかっている。それでも問わずにはいられないのは、『籠城』が旧制一高のイデオロギーを纏った「声の映画」という側面を強く持ち、ひいては声そのものの不可思議性にまで抵触している可能性を内包しているからに他ならないと思う。
冒頭の問いがまた巡ってくる。
これは何の声か。
そう問う声がすでに谺のように響く。
完成された映画を観てもなお、これらの声がどのような位相のもとに形成されているのかを掴むことは容易ではない。むしろ一つの完結された作品として、製作者の手から離れたことを考えれば、いよいよ謎は謎として深まるばかりであるが、これもまたこの映画の多角的な魅力としてポジティブに捉えることが可能であろう。
今後も3月26日、27日、30日、31日と駒場キャンパスでの上映会が連日予定されており、多くの方が『籠城』の世界に触れる機会を得ると思う。もし本稿を読んだ方で、今後映画をご覧になられる方がいたら、ふと上記の問いに思いを至らせてほしい。幾重もの螺旋を巡りながら、気づけば元の場所に回帰しているような、そんな時空への旅の入口がそこにあるかも知れない。
報告者:永澤康太(詩人)
写真撮影:金城恒(東京大学教養学部4年)