2022年3月9日、飯田橋文学会、 東京大学東アジア藝文書院(EAA)、東京大学ヒューマニティーズセンター(HMC)、東京大学大学院総合文化研究科・教養学部附属 共生のための国際哲学研究センター(UTCP)の共催による「〈現代作家アーカイブ〉文学インタビュー」の収録の模様がZoomにて同時配信された。第24回を迎える今回のゲストには、小説家である川上弘美氏をお迎えし、聞き手を木村朗子氏(津田塾大学)が務めた。インタビューでは、川上氏の自選作『真鶴』(2006)、『大きな鳥にさらわれないよう』(2016)、『ぼくの死体をよろしくたのむ』(2017)を中心に話が展開された。さらに、作品世界内外にわたる様々なエピソードも織り交ぜ、川上氏の創作活動の歩みが紡ぎ出された。
インタビューは、川上氏が執筆活動を本格的に開始するまでの経緯にまつわる話に始まった。創作を始めた頃の川上氏は、前の世代が蓄積した豊穣な創作成果に圧倒されると同時に、男性作家の小説や戦争を描く小説といった、当時の日本文壇を支配した小説と自分の描きたいものとの齟齬を痛感し、「何も書くことがない」という思いに長く憑きまとわれていたという。だが、多和田葉子の『犬婿入り』(1993年刊、同年芥川賞受賞)に触れた際、川上氏は「この感じを描きたい自分がいる」ことを意識し、それに突き動かされ、執筆活動に精力的に取り組むようになった。
インタビューでとりわけ興味深かったのは、作品世界における「瞬間」の捉え方をめぐる川上氏の見解である。川上氏が紡ぎ出す、「漲って滲み出し、ついに散っていく」ような、移ろいやすく、不確かさに満ちた作品世界は、様々な瞬間の感覚を切り取ろうとする氏の意欲から生み出されるという。「消えてしまう瞬間のものを見せようとする」創作の姿勢に対して、氏は、福岡伸一の著作を参照した。そこに記される、身体を構成する分子が、一定不変に見えるものの、実は絶え間なく入れ替わり、瞬時に変わりゆくものであるという生物観と、氏の創作をめぐる意識には通底するものがあると語った。すなわち、一見すると変化のない全体像の中で、移ろい変わり続ける瞬間を掴もうとする意識こそが、川上氏の作品世界に色濃く刻印され、滲みあふれるものである。
こうした「瞬間」に対する執着は、川上氏の創作方法にも波及している。短編小説を好んで書いた氏にとって、短編小説とは、ある瞬間のことを細部まで見極め、その瞬間の変化を切り取るものである(これを川上氏は数学の「微分」に喩えた)一方、長編小説とは、全体像を巨視的に積み上げ、時間の流れの積み重ねを表現する方法(こちらは「積分」に喩えられる)である。それ故に川上氏は、短編小説を書くことを通して、書くことの喜びを噛み締めることができる一方で、長編小説を書くことに対しては、やりにくさを感じていた。この創作をめぐる葛藤に関して、氏は、単独の短編を何十章も重ねることで長編小説を編み上げるという、長編小説が書けるようになるまでの創作秘話を詳らかにした。
さらに、木村氏から投げ掛けられる、川上氏の小説における語りの主体をめぐる問いも、川上氏の創作の本質に迫る興味深いものであった。氏の作品世界において、「私」という一人称の語り手は常に、作者の実人生と同一化することのできない、掴みどころのない存在である。また、デビュー作の「神様」における「私」のように、男性と女性というカテゴリーの制約を振り捨てる語り手を、氏は意図的に創る。それは一方で、ジェンダーなどの区分に囚われない小説を書きたいという、氏の創作意識に由来するものであるが、他方ではまた、しばしば女性作家たちが、物語内容と実生活を恣意的に結びつけられ、性的な視線や誹謗中傷を被ることに対して、氏が抱いていた不安や抵抗から生じるものでもある。換言すれば、こうした作家の私的な要素を押し出さない創作意識こそは、氏が、女性作家を取り巻く差別的な状況から脱するために、辿り着いた方策であると言えよう。
とはいえ、近年の川上氏は、実在の作家像と折り重なる語り手を描き出すようになった。このような創作意識をめぐる変容に対して、木村氏にその理由を問われると、川上氏は、「年を取ると、やはり自意識が強くなくなってきて」、「自分に拘る感じがなくなった」と答えた。川上氏のその答えは、まさに「私」に沈潜し、「私」を追及することに始まる日本の「私小説」という概念から自身の作品を引き剥がし、「私小説」の閉鎖性を打破する見解であると言えよう。
インタビュー本編では、川上氏の創作の内実が次々と詳らかにされてゆく。例えば、『大きな鳥にさらわれないよう』と地下鉄サリン事件との関係や、『神様2011』に描出されている、東日本大震災後の日常に揺蕩う不穏な空気をめぐる発言から、氏の作品に底流する、現実社会からの影響関係が明らかにされた。さらさらとして、淡く、あり触れた日常を描き、現実社会の重苦しさから浮遊しているようにしばしば感じられる氏の小説空間には、しかしながら、常に日本の社会問題に対する絶え間ない思索や関心が込められていることが、インタビューを通してより一層はっきりとした。
また、『真鶴』をめぐる議論を通して、川上氏の文学世界に色濃く憑きまとっている死者との交信や交感は、過去や記憶といったテーマと向き合おうとする氏の創作意識と密接に結びついていることが明かされた。『大きな鳥にさらわれないよう』をめぐる議論では、愛と生殖、宗教と祈りといった氏の作品に繰り返し現れる問いに触れ、氏の作品世界の内実により迫ることができた。さらに、川上氏は小説を書く際、常に作品が載せられる媒体の性質を強く意識し、それに合致するテーマを構想するなど、様々な創作秘話も明らかにされた。
インタビューの終盤では、川上氏が今後の創作活動について述べた。氏は、六十三歳の自身と等身大の語り手にまつわる小説を繰り広げたいと感じている。それは、年寄りでもないし、若者でもないという存在の時間を描く小説が、滅多にないからだという。
その他に、『大きな鳥にさらわれないよう』の冒頭を、川上氏自身が朗読する様子も配信された。
報告者:魏 韻典(東京大学大学院博士課程)