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2022.02.17

【報告】第8回東アジア仏典講読会

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2022年2月12日(土)日本時間15時半より、第8回東アジア仏典講読会を開催した。この読書会は、禅を中心に仏教の研究を行っている日本・中国・韓国・フランスなど各国の研究者が集い、文献の会読や研究発表・討論を行うものである。今回は前回に続き、柳幹康(東洋文化研究所)より白隠の実践体系について、以下の二点の報告がなされた。

 

 

第一に、白隠にとって自利(自身を利すること)と利他(他者を利すること)は相補的な関係にある。まず利他のために自利が必要となるのは、自身の悟境を高めることによって、他者に施すべき教法の真意を見抜く力と、他者の機根を弁別する力が養われるからである。一方、自利のために利他が必要となるのは、他者の救済に邁進することで、迷いの根源である我執を除くことができるからである。利他を助ける自利と、自利を助ける利他との双方を倦まず弛まず行い続けていくことこそが、白隠の考える理想的な実践である。

 

 

第二に、白隠の実践体系を構成する三つの要素(見性・自利・利他)は、白隠がその生涯で得た三種の悟りと密接な関係にある。すなわち、(1)白隠自身は24歳の時に無字の公案に参究したことで最初の大悟を得ており、後進の指導に当たっては無字に参究することで見性(最初の悟り)を得るよう求めている。(2)白隠自身は24歳の時に師の正受に複数の公案により責め立てられて二度目の大悟を得ており、後進の指導に当たっては同様に複数の公案により自利(悟境を更に練り上げる上求菩提)に進むよう求めている。(3)白隠自身は42歳の時に三度目の大悟を得て法施(教法により他者を救済すること)の重要性を徹見しており、後進の育成に当たっては、利他(教法により人々を救う下化衆生)に邁進するよう求めている。つまり白隠が構築した実践体系とは、自身が歩んだのと同じように人々にも正しい実践の道を歩ませようとするものなのであった。

 

 

これに対し参加者より様々な質問が提起され、活発な意見交換が行なわれた。ここではそのうち白隠の思想の独自性を考えるうえでも、また仏教思想の展開を考えるうえでも重要となる「自利と利他の関係」に関する議論を取り上げたい。今日の仏教においては、自利と利他は鳥の両翼、車の両輪のような関係で、双方を兼ね備えるのは当然のことであると言われるが、かつてシュミットハウゼン氏が論じたように両者の関係はそのような単純なものではなかった。仏教の開祖たる釈尊は、己の苦を克服するために出家修行し、悟りを得た当初は、その体験を他者に伝えることに消極的であったと伝えられる。後には釈尊の目的は最初から一切衆生を救済する利他にあったという伝承も生まれ、そのために修行に勤しむ釈尊の開悟前の姿を模範にとる大乗仏教ではとりわけ利他行が重視・強調されたが、自利と利他の関係を整合的に説明したものは殆ど見当たらない。そのようななか白隠は独自の探究を続け、その果てに次のような独自の理解に行き着いた。すなわち、「利他の実践によってのみ迷いの根源である我執を除くことができ、それによって始めて自利が完成する。利他を行なわないのであれば、それは“自分さえよければよい”という我執に執われている証拠であり、その我執を除去しない限り人は輪廻を繰り返し苦しむこととなる」というのである。

現代において「輪廻」の説は必ずしも皆に是認されるものではないだろう。しかしながら、「他者のために尽力すること以外に我執を克服する道はなく、我執を除かない限り人は幸せになることができない」という白隠が到った結論は、今日もなお傾聴すべき重要な問題に関わるものであるように思われる。

 

報告者:柳幹康(東洋文化研究所)