2022年2月7日(月)19時から、東京大学東アジア藝文書院(EAA)、東京大学経済学図書館・経済学部資料室、(-社)読売調査研究機構の三者主催によるオンライン連続講座「知の継承(バトン)」の第2回が開催された。前回講座の「紙の誕生と伝播から見る「記録媒体の世界史」~東洋から西洋へ」に対し、今回の講座は逆の西洋から東洋へのアプローチについて、東京大学経済学図書館架蔵のアダム・スミス文庫が取り上げられた。
登壇者は、石原俊時(東京大学経済学図書館長)、野原慎司(東京大学大学院経済学研究科准教授)、矢野正隆(東京大学大学院経済学研究科助教)の3氏である。プログラムであるが、石原氏による開会挨拶の後に野原氏によるプレゼンテーション「旧蔵書から見るアダム・スミスの知的世界」がなされ、それを受けた野原・矢野氏によるトークセッション「近代における西欧思想の伝播の歴史~アダム・スミス文庫が私たちに伝えるもの」が行われ、最後に質疑応答があった。
プレゼンテーションに先立ち、石原氏により前回同様に本連続企画についての説明がなされた。次に東京大学経済学図書館架蔵資料のうち、アダム・スミス『国富論』初版をはじめとする経済学の古典とカール・マルクスなど経済学者の書簡、山一証券資料など企業・博物資料、古札・古貨幣コレクションや山城国西法花野村浅田家文書などの古文書・博物資料が紹介され、経済学部の設立とアダム・スミス文庫について説明が行われた。最後に、東京大学経済学部図書館の周年記念行事の一環として本日公開された東京大学経済学図書館・経済学部デジタルミュージアム「アダム・スミスからの知の継承」(https://lib-dm.e.u-tokyo.ac.jp/)について、「第Ⅰ部 アダム・スミスの書棚の世界」、「第Ⅱ部 スミスが生きた時代:ウィリアム・ホガースのまなざし」、「第Ⅲ部 海を渡ったスミス:スミスの思想の東アジアへの波及」の内容が詳しく説明された。本講座に深く関わる内容であり、ぜひともご覧いただきたいと思う。
野原氏のプレゼンテーション「旧蔵書から見るアダム・スミスの知的世界」は、アダム・スミスが資本主義社会をどう捉えたかについて、アダム・スミスの蔵書分析から論を説き起こされた。全世界のスミス蔵書は、経済学・政治学・道徳・法学のみならず、文学、詩、芸術、旅行記、博物誌など多岐にわたっており、資本主義社会を初めて捉えた経済学者スミスの広範な知の世界、経済学の非経済学的起源を知る手がかりになることを述べられた。次にスミス文庫の人類史的意義について、1)人間・社会・世界を解明する学問と、都市化を背景とし人間の生き方にかかわる宗教との役割分担という近現代的決着の形成過程の謎に迫る一助であること、2)庶民の欲望の追求が原動力となる資本主義社会における、人類を突き動かすものとしての「境遇の改善」欲求(財産・地位の向上欲求)の2点を述べられ、その起点としてのトマス・ホッブズ『リヴァイアサン』についても言及された。非常に密度の濃い15分間であった。
野原氏のプレゼンテーションを受けて、矢野氏とのトークセッション「近代における西欧思想の伝播の歴史~アダム・スミス文庫が私たちに伝えるもの」が行われた。まず矢野氏から、新渡戸稲造がイギリスの古書店から購入した141タイトル303冊のアダム・スミス文庫の管理について、1781年当時2,300冊にのぼる蔵書の各所への伝来、1924年の関東大震災時の同文庫の救出、1945年の戦時疎開、1955年の大河内一男教授が厳命した「原形保持」による本格的修復のプロセスが、当時の修復作業の記録をもとにスライドで分かりやすく述べられた。なお修復作業の記録とその考察について、森脇優紀・福田奈津子校注、小島浩之解題「「1950年代のアダム・スミス文庫に関する覚書」校注(『東京大学経済学部資料室年報』9、2019年、15~38頁、東京大学学術機関リポジトリhttps://doi.org/10.15083/00079148より公開)、森脇優紀「1950年代日本における西洋稀覯書の修復技術とその方針 : 東京大学経済学図書館所蔵「アダム・スミス文庫」を事例として」(同10、2020年、12~23頁、同リポジトリhttps://doi.org/10.15083/00079156より公開)に詳細に述べられているので、ご覧いただけると幸いである。
矢野氏は次にアダム・スミス文庫の公開と利用について、1951年刊行の矢内原目録(A Full and Detailed Catalogue of Books which belonged to Adam Smith : Now in the Possession of the Faculty of Economics, University of Tokyo, with Notes and Explanations, Tokyo: Iwanami Shoten, 1951)、1976年の「国富論」刊行200年記念アダム・スミス文庫公開展示会、2013年の東大OPACからの西洋古典籍デジタルアーカイブからの書誌及び画像データの公開(矢野正隆「「西洋古典籍デジタルアーカイブ」特徴と利用法」、同4、7~11頁、同リポジトリhttps://doi.org/10.15083/00047475より公開、国立国会図書館運営のジャパンサーチからも画像の閲覧が可能)を紹介しながら詳細に述べられた。アダム・スミス文庫の各蔵書が、資料の利用と保存という相矛盾するニーズを両立させるため、蔵書の原形をできるだけ尊重しながら、高精細画像による世界各地からの利用を実現したことは高く評価されよう。
最後の質疑応答では、アダム・スミスの思想研究における蔵書の位置付け、アダム・スミス文庫を用いた思想研究、デジタル画像公開利用の現在におけるオリジナルのモノ資料がもつ意味、アダム・スミスと道徳との関係、アダム・スミスが生前に原稿を全て処分した理由、AI技術を用いたアダム・スミス研究の新たな可能性など、さまざまな質問が行われた。その中で矢野氏が強調されたのは、資料の複製の可能性と不可能性についてである。技術次第で資料のテクストや図像などのいわばコンテンツ情報は複製が可能であるが、伝来や物的組成といったいわばコンテクスト情報は複製が不可能であり、原形を保持して修復が行われ、画像データによる公開利用が可能になったアダム・スミス文庫は、モノとしての蔵書から読み取れる情報は何かを考える格好の素材と述べられたことが印象に残った。ラテン語のアウラ(aura)という言葉は、ある人や物のあたりに漂っている独特の雰囲気、オーラの意味であるという。資料の保存と利用に携わる私たちが、モノ資料がもつアウラを後世の人々にいかに伝えることができるかについて、改めて考えさせられた今回の講座であった。
なお本講座の申込者数は548名あった。公開講座の模様はYouTube(https://youtu.be/63taUaqnn3U)でも公開されているのでぜひご覧いただきたい。
報告者:冨善一敏(東京大学経済学部資料室)