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2022.02.25

【報告】第4回EAA批評研究会

2022年1月28日(金)、第4回EAA批評研究会がZoomにて開催された。今回の研究会では、江藤淳(1932-1999)著『アメリカと私』(文春文庫、1991。初出:1965)を取り上げ、「異文化体験と批評」をテーマに、様々な角度から議論が交わされた。

 

 

研究会前半は、田村正資氏(EAA特任研究員)による『アメリカと私』に関する発表に始まった。このテクストは、江藤がロックフェラー財団の研究員としてプリンストン大学に渡米し、その後、同大学の東洋学科で日本文学史を教えた約2年間の記録である。異なる言語・文化環境下で同一性を保つための「異質の手続き」、さらに自らを気化させることなく学問を営み続けるため、アメリカを理解するための「焦点」を獲得しようと模索し、葛藤する江藤の軌跡が綴られている。

著者の略歴・テクストの概要に続き、「異文化体験」と「批評」とのかかわりを考えるうえで重要となるテクストのポイントが共有された。異なる文化・風土の国で生活するという環境の変化は、同じもの(日本人)であり続けるために「異質の手続き」を身につけなければならないという逆説を江藤に突きつけることになったと田村氏は解説する。この手続きの際に必要となるのが、異文化圏の「知識」と、その意義を見極め位置付ける際に必要となる「焦点」である。『アメリカと私』には、江藤が作家ウィリアム・ディーン・ハウエルズの孫との出会いを振り返り、その出自が自身にとって特段感動を催すものでなく、あくまでも「知識」にとどまるものであり、むしろ求めていたものは「知識に焦点をあたえてくれる「発見」ともいうべきもの」(p. 61)であったと述べる箇所がある。田村氏は、この時の江藤の感覚が、私たちの生活と知識の結びつきについて一つの洞察を与えてくれると説明した。私たちは日常生活において、「単なる情報」と「魅力的な知識」とを分ける焦点の存在をほとんど問題にしない。同じレベルの知的階級や共同体においては、「情報」と「知識」の棲み分けの指標は暗黙の了解であり、通常はそれが前景化することはない。だが、アメリカという言語・歴史・文化が大きく異なる環境に身を置いた江藤には、この焦点の不在が痛切に感じられたのだろう。江藤のテクストは、私たちが生活において重要視し知ることに悦びを感じるもの、そして広く知識として扱うものを成立せしめている「焦点」そのものを相対化してくれるという点で、大きな示唆を与えてくれるという。

さらに田村氏は、これらの要素の繋がりから得られる示唆を、自身の関心の一つである競技クイズの場合を通して浮き彫りにした。クイズは、自らが見つけた魅力的な情報を知っているか否かを相手に問いかける営みであり、情報の魅力や意義深さの理解が共有されていることが前提条件となる。そこで問われるのは決して純粋無垢な意味での森羅万象についての情報(「知」)ではなく、問う者と問われる者とが属する共同体固有の「焦点」を通して浮上する「知識」であり、私たちが森羅万象をどのような体系として理解しているかを問うものであると述べる。また、国・文化・風土により変質し得る「問われるもの」を観察することが、「焦点」の多様性をも浮かび上がらせる可能性を指摘すると共に、「焦点」を容易に持ち得ないマイノリティとしての経験を考えるための一つの視座にもなり得ると述べた。

 

 

研究会後半では、田村氏の発表や参加者各々の留学先での体験や異文化体験談を起点とし、「異文化体験」と「批評」との関わりについて様々な観点が共有された。田中有紀氏(東洋文化研究所)は、江藤のテクストに書かれた同一性の模索に触れつつ、博士課程在籍中、北京大学に留学先で経験した「読み」の根本的な差異について紹介した。ある程度確立されたテクストの読み方に対するこだわりのようなものを、中国の北京大学の哲学系の読み方とどう調整するかというところで悩んだという。現代中国語で相当な文量に目を通し、その後のディスカッションに注力する授業形式と、それまで日本の大学で積み重ねてきた、テクストの一部を丁寧に読み込み、思考を深めたうえで授業に臨むスタイルとの齟齬を振り返り、その調整・模索の経験を共有した。その発言を受け、郭馳洋氏(EAA特任研究員)もまた日本での留学経験で実感したテクストの読みの差異に触れると共に、研究者間の問題意識にもまた違い(例えば、中国における中国研究者と、日本における中国研究者との問題意識の差異)があることを指摘した。郭氏の発言を受けて、田中氏は、異文化で経験した彼らが大切にする問題意識の存在や、自身の慣れ親しんだ問題意識とは異なるその知識体系の差異に対する認識こそが、異文化体験の大きな収穫であったと付け加えた。

アメリカのイエール大学において留学・指導経験を持つ佐藤麻貴氏(EAA特任准教授)は、自身が身を浸したアメリカの価値体系を共有すると共に、むしろ帰国後に逆順応するのに苦悩した経験ついて語った。「読み」の差異に葛藤した経験に加え、佐藤氏は、『アメリカと私』で江藤が描き出したアメリカ像とその実像との違いについても指摘した。一口にアメリカといっても、様々な地域性・大学の特色があり、江藤の描いた構図では捉えきれない実像があるという。沖縄研究を専門とする崎濱紗奈氏(EAA特任研究員)は、海外でのワークショップに参加した際に感じた英米圏と日本の史学分野における作法の違いに触れ、その狭間で自身のスタンスを模索し、異なる立場を行き来する難しさを共有した。さらに田村氏の言及したマイノリティ問題を考えるうえでの、一つの視座としての「焦点」の可能性に触れ、沖縄におけるアイデンティティの複雑性を紹介すると共に、江藤が覚えたような「焦点」を共有できない疎外感・浮遊感などは、それを意識するか否かにより会得されるものだと指摘する。マイノリティだからその立場がわかるとは限らず、「焦点」というものが自分の中で、批評精神として意識され得るものになっているか否かが、大きくかかわっているのではと、発表を受けて考えさせられたという。その他、政治学を専門とする具裕珍氏(EAA特任助教)からの、『アメリカの私』に綴られた体験が、その後政治的文脈における江藤がアメリカを眼差す際に与えた影響についての質問など、異文化体験と批評との関わりを考える上で切り離すことのできない多岐にわたる問題が取り上げられた。

 

 

コロナ禍において渡航を諦めざるを得ない状況が続く中、異なる言語圏・文化圏を現地で体験する機会が遠のいている。だがその距離ができたからこそ、こうした異文化体験が私たちに及ぼし得る力・価値について、また人が移動することで生じ得る内的変化やその後の自己の再編成について改めて振り返り、その価値を強く認識する機会に恵まれたように思う。参加者それぞれの分野や実体験に根ざした観点・意識の共有そのものが刺激となり、異文化体験が批評にもたらし得る可能性や力について、様々な角度から再考・議論することのできた充実した回となった。

 

報告者:片岡真伊(EAA特任研究員)