2021年12月23日(木)、第3回EAA批評研究会「長谷川如是閑の批評:1930年代のジャーナリズム論と日本文化論」が対面とオンラインのハイブリッド形式で開催された。本研究会は、様々な概念・事象・テクストから「批評」そのものを問い直すとともに、「批評」を広く世界史・文学・哲学の文脈に向けて開き、新たな知のプラットフォームの構築を目指す試みである。今回の研究会では、戦前から戦後にかけて論壇で活躍していた文明批評家・ジャーナリストの長谷川如是閑(1875-1969)に焦点をあて、「対立的社会感覚の表現としてのヂヤーナリズム」(『中央公論』、1930年11月1日)、「日本思想の実在主義的傾向」(『批判』、1932年9月1日)、「本居学の学問的態度」(『日本評論』、1938年4月1日)を中心に考察した。
本題に入る前に、報告者(郭)はまず竹内洋『大衆の幻像』を扱った前回の研究会を簡単に振り返りつつ、「大衆」概念を論じた如是閑の「民衆政治を超越して」(1923)と「政治的概念としての大衆」(1928)という二つのテクストを紹介した。そこでは公共領域に現れる公衆・輿論と区別される「大衆」が社会における対立性を表す概念として析出されている。
その後、報告者は「対立的社会感覚の表現としてのヂヤーナリズム」(1930)と「日本思想の実在主義的傾向」(1932)の内容をそれぞれまとめた。「対立的社会感覚の表現としてのヂヤーナリズム」において、ジャーナリズムは「対立的社会状態」に由来する「対立的社会感覚」を表現する機関であり、そこで重要なのはいわゆる客観性や公正性よりもむしろ対立性であるとされる。そのような対立性もしくは批判性は近代資本主義社会における商業主義の侵襲で無化されようとしているが、それを取り戻すにはプロレタリア対ブルジョアの「階級闘争」が必要だと如是閑は考えた。そして「日本思想の実在主義的傾向」(1932)では、この階級闘争をイメージした対立性が観念主義(ブルジョア)と実在主義(プロレタリア)の対立に結びつけられている。如是閑は日本の近代化の原動力をその実在主義的な伝統に求め、さらにそれを万葉集、記紀神話および近世後期の国学(とくに本居宣長)に遡って論証しようとした。こうした如是閑の議論は1930年代以降における一連の宣長論の執筆につながった。如是閑のジャーナリズム論と日本文化論は、同時代におけるジャーナリズムそのものを対象化する動きや「日本回帰」という潮流に関係しつつ、明治期の国粋派ジャーナリストたちによる文明批評を引き継いだ面もあると考えられる。
続いて片岡真伊氏(EAA特任研究員)は「本居学の学問的態度」(1938)の内容を詳細に整理した。如是閑は本居宣長の学問について、1.「学問を中世的ギルドの拘束から解放」、2.「伝承の非学問的方法から近代的の学問的方法へ」、3.「学問の中世的拘束からの解放によって古典を再認識」、4.「我が国民性」の発見、5.「階級的独占の学問」から「国民的学問」への転換、という五つの特徴を挙げており、このような本居学は「古学の名を持った近代学」、「国民に対する学的関係においても近代的学問の先駆」であるという。片岡氏の考察によれば、如是閑の宣長論は中国や西洋との比較を通じて日本文化の性格を浮かび上がらせるという文明批評の手法をとっているもので、その内実は同じ年に出た『日本的性格』で表明された、「かくあるべき理」よりも「かくある」ことを重んじるスタンスに通じるのである。
ディスカッションにおいて田村正資氏(EAA特任研究員)は、単なる中立性や不偏不党の標榜をせず対立的社会感覚を重視し、表面的刺激に走る近代ジャーナリズムを批判した如是閑のジャーナリズム論の射程が今日の状況まで及ぶと評価しながら、「対立」をほぼ階級闘争と同一視する如是閑の議論にはマルクス主義の強い影響が見られると指摘し、マルクス主義的なフィルターを外してもなお今日の文脈においてジャーナリズム批判として読めるか、という重要な問題を提起した。田中有紀氏(東洋文化研究科)は日本や韓国における儒教研究の視座と方法に言及しつつ、近世日本の学問に実在主義を読み込んだ如是閑の日本文化論に新鮮味があったものの、論の展開において最初に示唆された普遍史的な視点が後退してしまい、実在主義が次第に日本固有のものとして強調されるようになった点に物足りなさが感じられると述べた。
戦前日本の中国研究者を研究対象としているヴィクトリヤ・ニコロヴァ氏(総合文化研究科修士課程)は、如是閑のいわゆる「転向」およびその中国論の動機に関心を示したほか、如是閑のジャーナリズム論で語られた「普遍的」という言葉の意味、ポピュリズムとの関係が気になったとコメントした。ポピュリズムと関連して、高原智史氏(EAAリサーチ・アシスタント)は「外部」という概念を用いて如是閑の議論に興味深い理解を提示した。つまり「対立的社会感覚」とは外部への意識だとすれば、ポピュリズムの場合は外部が消えてすべての対立が内部の問題に解消されており、その意味で戦後の大衆民主主義もしくは「大衆」天皇制(大衆の天皇制化を指す竹内洋の用語)の問題点はまさに外部性・対立性の喪失にあるという。佐藤麻貴氏(EAA特任准教授)も如是閑のテクストで繰り返し説かれている対立性の問題に着目し、「A vs非A」でしかないような対立構造がむしろ批評を稚拙化してしまうのではないかと疑問を呈し、現在の批評はテーゼとアンチテーゼの対立にとどまり、それをより高次な段階へと止揚するジンテーゼを出せずにいる状況を批判的に見た。
対立構造のことについて、田村氏は如是閑の議論が階級的対立に基づいた二元論に帰着するが、今日における最も大きな課題は必ずしも経済的な対立ではなく、むしろ経済力の差異に還元されないアイデンティティや文化の対立であり、現在も多数発生しているそういった対立を掬い上げる可能性を如是閑のテクストに読み込めるかは一つの問題だと指摘した。一方でニコロヴァ氏から、経済的な対立は貧乏か富裕かの問題にとどまらず、社会的構造に深く関わる以上、アイデンティティなどの問題にも通底するのではないかという意見があった。また報告者は、如是閑の論説には確かにマルクス主義に依拠した階級闘争史観が色濃く反映されているが、その目指したところは単なる「力」(武力/知力/経済力)による支配ではなく、「社会的要求を充たす」ことである点が大事だと考えた。
以上のように今回のディスカッションでは社会における対立性の把握をめぐって議論が盛んに行われた。対立性をどこからどのように読み取るかはジャーナリズムの批評性ないし批評一般にとって重要なポイントになる。おそらく対立性はただ均質的な言論空間における殴り合いではなく、そこから落ちこぼれたもの、換言すれば(前回の研究会で議論された)「大衆の幻像」に包摂されないところに現れてくるのだろう。また現代マルクス主義の中でも、例えばラクラウ(Ernesto Laclau)とムフ(Chantal Mouffe)の共著Hegemony and Socialist Strategy (1985)のように、硬直化した階級闘争史観や存在論的に自己完結的な階級概念を疑問視して、労働者の闘争はジェンダーやエスニシティをめぐる複数の闘争と「節合」(articulate)すべきだという主張がなされている。では、いわゆる階級的対立は現代における無数の対立の一つに過ぎないのか、それとも数多くの対立に対してなお根本的な位置を占めるのか、はたまた社会運動の現実的な戦略として特定の対立を前面に押し出し、ほかの対立をしばらく括弧に入れるしかないのか、この一連の問いはグローバル化しつつも様々な分断を抱えている今日の世界を考えるにあたって避けて通れないものだと思った。
報告者:郭馳洋(EAA特任研究員)