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2021.12.13

【報告】第6回東アジア仏典講読会

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2021年12月11日(土)日本時間14時より、第6回東アジア仏典講読会を開催した。この読書会は、禅を中心に仏教の研究を行っている日本・中国・韓国・フランスなど各国の研究者が集い、文献の会読や研究発表・討論を行うものである。今回は(1)国際シンポジウム「看話禅の諸相」を承けての議論、および(2)永明延寿の「官銭放生」に関する資料の会読を行った。

 

 

(1)国際シンポジウム「看話禅の諸相」は2021年11月27日(土)に国際禅研究プロジェクトの主催で開催されたもので、本講読会のメンバーのうち土屋太祐氏(新潟大学)が司会として、ディディエ・ダヴァン氏(国文学研究資料館)、張超氏(フランス高等研究実習院)、柳幹康(東京大学)が発表者として参加した。それを承け、当日聴講していた他のメンバーも加え、東アジアにおける看話禅の成立と展開について改めて議論を行なった。

看話禅は公案に意識を集中することで大悟の体験を得る実践法であり、今日の日本でも臨済・黄檗両宗において行なわれている。ところが、20世紀初頭に敦煌文献中から発見された古い禅宗文献、および韓国から発見された禅宗史書『祖堂集』から知られる唐代の古い禅の姿は、それまで知られていた看話禅とは大きく異なるものであった。そこでこれまで、古い唐代の禅から、後の看話禅へどのように繋がるのかが主な問題として議論されていた。

それに対し、今回のシンポジウムでは、以下の諸点が新たに指摘・解明された。すなわち、(1)従来の禅の修行は師匠と弟子の直接の交流において為されていたのに対し、宋代に大慧宗杲が確立した看話禅は書面などによる間接的な指導が可能であり、それにより士大夫層へ爆発的に広まったと考えられる。(2)これまで看話禅の宋代以降の展開はあまり議論されていなかったが、元代から明代にかけて人々をより効率よく悟らせる新たな公案が複数創出された。(3)中国ではひとつの公案に参究し悟るというのが一般的であったのに対し、日本では複数の公案に参究するようになり、突破した公案の数やその進度を競う風潮が生まれた。(4)日本で今日行なわれている看話禅(白隠禅)の実践体系には、白隠がその生涯で得た三種の大悟が反映されており、その大枠は見性(最初の悟り)を経て上求菩提(複数の公案参究による悟境の練り上げ)と下化衆生(教えを説くことによる人々の救済)を行なうというものであった。

かかる新たな研究成果を確認したうえで、以下のような問題が新たに議論された。そもそも公案に参究して悟る、というのは具体的にはどういうことなのか。大慧の看話禅は主に士大夫向けに説かれた資料に見えるもので、出家者に対しどのような指導を行なっていたのか。中国の士大夫はなぜ悟ろうとしたのか。禅において開いた悟りを乗り越えるという発想は古くからあるものの、乗り越えた先に二度目や三度目の悟りがあるというような考えはいつ頃から見えるのか。これらの問題をめぐり、出席者により様々な意見が出された

 

 

(2)永明延寿の「官銭放生」に関する資料の会読は、前回の講読会に引き続き、柳を中心に為されたものである。延寿の「官銭放生」説の初出は北宋の『東坡志林』であり、そこから南宋期に諸書に広まり、明代に延寿の台詞を加えるなど各種の増広が為された。今回はそこから更に大幅な脚色を加えた明代の小説『西湖二集』、および明末清初の浄土劇の脚本『帰元鏡』に見える「官銭放生」説を会読した。両書の文章は講読会で普段会読している唐宋期の文献と大きく異なり、現代中国語に近く、報告者にとってあまり馴染みのないものであったが、各専門分野のメンバーから意見をいただき議論することで、その内容を把握・翻訳することができた。

今回の講読会で特に印象深かったのは、看話禅をめぐる研究が近年長足の進歩を遂げており、報告者の柳が約二十年前に研究を始めた頃には全く分かっていなかった通史的な展開が、朧気なからもかなり分かるようになってきたこと、および現在修士課程・博士課程に所属している若手のメンバーが文献会読の際に有意義な意見を出してくれたことである。この報告書を執筆するにあたり、現時点では想像もできないような禅や東アジア仏教に関する新たな研究成果が彼らにより続々と報告されるであろう二十年後のことに思いを馳せ、期待に胸を膨らませた次第である。

 

報告者:柳幹康(東洋文化研究所)