ブログ
2021.11.30

映像制作メモランダム(10)

 このほど、私が監督・脚本・編集を務めた『conception -こもり-』が上映され、批評を受ける機会に恵まれた。研究という営みは、経験および論理の産物として書かれたもの(多くの場合は、論文ということになるだろう)が、ジャーナル共同体による査読あるいは批判を通じて、単に個人的・主観的な成果物であることを超え、公共的な価値を有するに至るという一連のプロセスを踏む。かかる制度的な支えのないそれは研究ではない何かであり、それはそれで意義のないものではないだろうが、あくまで研究であることを自任するプロセスには、このいわば「私」から「公」への跳躍、もっと言えば(?)奉仕が不可欠である。むろん、この「私」から「公」へ、といささか標語的にすぎる事態は、研究以外にも看取されるし、映像制作の場合にも妥当するだろう。

 「私」から「公」への回路が敷設されたプロセス一般にはまた、「公」から「私」への照り返しという契機が潜在的に含まれている。「(…)他者の目に照らされるという形で、主題化され、それによって、自らの実存状況を対象化して、そこから自由になること」という、同僚の高原智史氏が映画制作に見いだしたリベラルアーツとしての価値とは、この「公」による「私」への反照を言い当てたものだと受け取っている。ところで、「私」が「公」によって照らし出されることで、いかにして自由が可能になるのかという点について、ここでは一考をめぐらせてみたい。

 前述の上映会において、出演者である星野太氏、小林康夫氏からそれぞれ受けた評によって、私が「私」として引き受けていたもの、意図・自覚していたもの以外の「私」が明るみに出され、あるいは引っ張り出されたという所感を持った。とりわけ、小林氏による指摘は、編集の過程で何を積極的に映し出そうとしたのか、逆に言えば、どういった類の素材を使わないことに決めた(排除した)のかということへ、他でもない、編集者たる私自身の意識を向けさせた。正直に告白すれば、編集作業はほとんど直観に依拠したものであり、そこには説明しようとすれば説明できなくもない意図めいたものはあるけれども、明晰に言葉にしうるような厳然たる意図があらかじめあって、その意図に従って理路整然と作品がまとめあげられたわけではない。もう少し編集プロセスを反省してみれば、直観に従って配置されひとまずかたまりを帯び始めた諸部分が、互いに連関・呼応するさらに大きな諸部分になるという路を経る一方、それら諸部分が解体・散布され、全体として眺めた場合にまだらな模様、しかしひとつの連続するリズムをなすという仕方でも作業が進んだ。おおまかに言ってこの二つの進行が編集作業の基調であり、まるで編集作業そのものが一つの楽曲(構成)のようでもあった。かかるプロセスは、小林氏の批評によってある面では腑分け、あるいは裁断されたが、批評に応答せんとすることで、その分けられ細かくなった部分が、分光器のごとく、作品としては表立つことのなかった多様な光を(少なくとも編集者当人には)垣間見させてくれたように思う。かように意図はしばしば仮構されるのかもしれないが、その意図はしかし、全くの虚構というわけでもない、何か人間の思考の前言語的な部分に触れるものであって、しかもその意図は、意図した(と慣習上みなされる)当人に他者が言語によって働きかけることで到来する。この到来に立ち会うことが、根源的な意味で人間が自由になるということなのであって、そこには通念上の自由意志とはあまり関係がなく思える、目の覚めるような地平が広がっている(とつい言いたくなる)。私はその地平に片足だかどこかを踏み入れ、おそらく身震いしていたと記憶していて、上映会後、しばらく言語との距離、言語使用を可能にする歯車の噛み合わなさを感受していた。この述懐自体、むろん仮構なのであるが。

 

 

 

報告:日隈脩一郎(EAAリサーチ・アシスタント)

写真:立石はな(EAA特任研究員)