紆余曲折を経て、101号館映像制作プロジェクトでは、旧制第一高等学校と当時を研究する現在の大学院生を描く映画の構想が、この夏、現実化に向けて、一気に動いた。昨年11月に行われた第1回ワークショップ以来、シナリオを含めた作品制作について集まるワークショップは、今年の9月までに37回を数えた。その間、それとは別で、シナリオの改稿が重ねられ、相当数の制作方針に関する打ち合わせを経た上で、10月初旬から、駒場キャンパス内での撮影と、情報学環メディアスタジオでの声の録音を行った。現在、編集が進んでいる。来年3月には駒場キャンパス内で上映会を予定している。
制作プロセスの大半に参加しながら実感するのは、映像作品に切り取られるのは、ごくごく一部である、ということである。何のごく一部なのか、と聞かれたら、おそらくは世界なのだろうが、正直なところそのような全体的なものを想定してよいのかさえも、よくわからない。合計で撮られた映像のすべてが使われない、という意味にはとどまらない。今回の場合、すくなくとも、一高をめぐるすべてはあまりにもとらえがたく、作品は、そのほんの切っ先がどこかに触れるか触れられないか、くらいなのだと思う。それくらいに、この1年以上、ほとんど高校生と呼んでしまってよいほどに若い、数え切れないほどの数の、駒場に訪れては去っていった、個々の若者たちの人生がたしかにそこにあったことが痛感された。ひとくくりにはできない。だとすれば、どのように、彼らに迫ろうとした上で、僅かしか切り取れないことを承知で、切り取り、編み直すことができるのか。できあがったあとの作品で批評に晒されるひとつは、その切り取り方と編み方であることがいまから思われる。
旧制第一高等学校時代の資料群とその研究調査にあるていど立脚している点が今回の制作の特色だが、意識的にであれ無意識的にであれ、扱われなかった資料は少なくない。その中には、藤木文書アーカイブスチームの活動ではたしかに目を通され丹念に調査されているものもあれば、戦火が激しくなる中、疎開先で展開された一高生たちの活動記録や、中国人留学生の学外での活動、1945年11月頃に特高館と当時呼ばれていた101号館にて開かれた学生たちによる委員会の記録といったものなど、歴史をどう見るのか鋭く突きつけてくるにもかかわらず、わたしたちがいまだにじゅうぶんには向き合えていない資料が大量にある。
時代的なことで言えば、1940年前後と現在を結ぶ、1950年代から1990年代までの時代、とりわけ、1968年の学生運動の頃の駒場には、触れることができなかった。それは、思いがけず、制作過程で派生して生まれた短いドキュメンタリー『conception -こもり-』においても、同様であった。そもそも、7月と8月に、駒場に縁深い4名の方から、1960年代から2000年代にかけての膨大な証言を得ながら、それらが作品に直接用いられることはなかった。その是非を問うわけではなく、このような事態が生じることそのものに、わたしはおもしろさとおそろしさを同時に感じている。
わたしたち映像制作チームは、何を映像にしうるのか、映像でしか表現できないものは何なのか、という問いを投げかけられているのだろう。その問いは、このプロジェクトそのものの企図を、絶えず、根源的に揺り動かしているように感じている。映像を創ろうとすることで初めて目の当たりにしてアプローチ可能になった問題系がたしかにある一方で、そこから零れ落ちてゆく現実たちを、どのように掬い取れるのか。もしかすると、録音した音声を文字として書き起こしてゆくシンプルな手法が相補的な役割を果たすことになるのかもしれないし、あるいは、別の映像の創り方がここからさらに派生してゆくのではないか、という予感めいたものさえある。思いがけない方向に進んでいることだけは、たしかである。
報告:髙山花子(EAA特任助教)
撮影:立石はな(EAA特任研究員)